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プログラミングでメシが食えるか!?

討論で勝っても結局は損?

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ミーティングをしていると、議論が白熱しているように見えて、実は単に個人同士の喧嘩のようになってしまっていることはありませんか?

会社は、生まれも育ちも違う人たちが、仕事をするために集まっている場所ですから、全員が同じ思いでまとまったりしないものです。冷めた見方をすれば、「お金、つまり生活をするために必要だから集まっている」集団という感じの「組織」とも言えるでしょう。

目の前の課題に対してどう解決するかというような議論なら誰もがイメージしやすいので、問題なく議論が進むことも多いのですが、「この先どうするか」「何を目標にするか」などの、レベルや感じ方が幅広い議論だと、「俺はこう思う」というような意見が多くなるために、個人対個人の言い合いになりやすいものです。

ここで冷静に考えなければならない点は、「討論で勝つことの価値」です。個人的には相手を言いくるめたり、打ち負かしたりした方が、やられるよりは気持ちがよいかも知れません。しかし、組織としてみると、単に亀裂が深まっただけということも多く、勝った方は、仕事仲間を一人失うことになっている可能性もあり、結局損をしている可能性もありますし、負けた方も頭に来たりふてくされたりして、損をするかも知れません。勝っても負けても「損」ということが多いのではないでしょうか。

私も若い頃は、毎週の幹部会議で当時の社長と「喧嘩」していました。「売られた喧嘩は買わねばならぬ」とばかりに、言い返していたのです。それを3年近く続けました。しかし、それで何が得られたかといえば、「喧嘩は全く意味がない」ということがわかったことくらいでしょう。

このところ、ACのCMで「金子みすずさん」の詩が流れています。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

仕事でも議論でも、まさにこの通りだと私は思っています。討論をふっかけられて、食いついていると「馬鹿」「馬鹿」あるいは「もう遊ばない」「遊ばない」の状態になるのです。子供だと素直にその後「ごめんね」が言えるかも知れませんが、大人はそれこそ「馬鹿」なので、意地をはってしまうことが多いのではないでしょうか。ほとんどの場合、喧嘩を売られても買わずに、受け流せばいいだけなのです。「馬鹿」といわれたら「馬鹿かも知れませんねぇ。ところで、この件はこうしませんか?」という感じに、喧嘩はとっとと片付けて、本当に必要な打ち合わせをすべきなのだと思います。

敵を増やしても、何もいいことはありません。個人的・感情的に嫌いな人であっても、お互いがいることでプラスになれば、一緒にやる意味があるのです。一人ではできないことでも、二人いればできるかも知れません。それなのに、「あいつは嫌いだから」とか「考え方が合わないから」と対立して足を引っ張り合うようなことになったのでは、何もいいことはないのです。

ちょうど昨日(日曜日)、妻と娘が朝から喧嘩状態でした。娘は妻から「注意」されると素直に聞かずに言い訳をしたり言い返したりするので、毎回なおさらひどい「喧嘩状態」に発展するのです。素直に「はい、ごめんなさい」と言えばすむことなのに、下手すると一日中にらみ合っています。
昨日は、昼にかけて妻は子供会の会合に出かけたので、私と子供たちで昼食を食べに行きながら、娘に同じことを話しました。金子みすずさんの詩ももちろん紹介しながら。

そもそも、「相手に自分の考えを全て理解してもらいたい」と思うから喧嘩になるのではないかと感じています。しかし、それは家族でも難しいことです。ましてや会社のように、好きで集まったわけでない人が大勢いる場所では、そう簡単に全員に理解してもらうことなどできないはずです。もちろん、諦める必要はありませんが、それを急ぎすぎると喧嘩になる気がします。とくに、相手の考え方を否定するような発言は喧嘩の元です。まずは、業務に関する議論を心がける方が得です。お互いの考え方を理解し合うのは時間が必要ですし、大勢の中で議論しても感情的になるだけでしょう。

以前、「D・カーネギー:「人を動かす」その3」ここにも同じような内容を書いていました。金子みすずさんの詩でも良いですし、カーネギーの本でも読み直して心を落ち着けて欲しいところです。

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