抜き書きの効用
本を読んで勉強するときの話。基本的に本に直接書き込まないので、重要な箇所はスキャン&OCRして、PDFファイルとして保存しています。で、PDFファイルにマークしたり書き込んだりします。右図のような感じ。
やや手間ですが、借りた本も買った本も、さらには裁断&スキャンした本も同じようにPC内で一覧でき、検索もできるという利点があります。
ただ、頭への入り具合でいうと、この方法は今ひとつ。気になった箇所に線を引くよりは、ブログやノートに「抜き書き」をしておく方が記憶に残ります。たぶん「手で書いた方が覚えられるよね」という話だけではありません。抜き書きも、作業としてはOCRにかけた文章のコピペなので。
抜き書きよりも線を引いたページごと保存しておいた方が、後から前後の文脈がよく分かるので有利なはず。しかし実際には、抜き書きした文章は、抜き書きした理由を覚えているのに対し、線を引っ張った箇所は「あれ、なんでここが大事だと思ったんだっけ……」ということになりがちです。
どうしてかな……と考えつつ抜き書きを眺めているうちに、すこしハッと来ました。
抜き書きをするときは、ひとり立ちしている(そこだけで意味が通る)文章を慎重に吟味します。文脈に強く依存した言葉は、抜き書きに耐えられません。いま読んでいる『無意識の脳 自己意識の脳』を例に取ると:
ひとたびある特定の感覚表象が形成されれば、それが実際にわれわれの意識的な思考の流れの一部であろうとなかろうと、情動を誘発する機構にわれわれはほとんど介入できない。
読みながら「なるほど!」と思って付せんを貼っておいた箇所です。読んでいるときは、「感覚表象」「意識的な思考」「情動」といった言葉を著者がどういう意味合いで用いているかを何となく理解していますから、違和感を感じませんでした。しかし、これだけ切り出して眺めてみると、もはや「なるほど!」感は再現されません。なんだか小難しいところにマークしちゃったなあという感じ。
その数行後に、ほぼ同じ内容を言い換えた文があります:
われわれにとって情動を止めるのは、くしゃみを止めるようなものだ。
情動の意味さえ覚えていれば、この文はひとり立ちしています(僕はまさに情動と意思決定の関係を学ぶためにこの本を読んでいるので、僕にとっては問題ありません)。この文章に限っていえば、巧みな比喩のおかげでイメージも沸きます。
抜き書きするのは、ひとり立ちしている文章。それだけでまとまったメッセージを発しているので、覚えやすい。そういうことなのかな。
一方、線を引くときには、前後の文脈を見ながら文章を選べるので、ひとり立ちしていない(文脈に依存した言葉の多い)文章も選ぶことができます。その前後も併せて読み直せば、たしかに思い出せるのですが、それは単なる再読。たとえば講義のときに自分の言葉として話せるかどうかと考えてみると、そこまで咀嚼できていないことが多いように思います。
ちなみに『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(ミニ書評)という本でも、理由付けは微妙に違いますが、抜き書きを強く推奨していました。