言葉にせずに考える
アルバート・アインシュタインは言葉でなくイメージで考えており、それを次のように語っていたそうです。
書き言葉であれ話し言葉であれ、言葉や言語といったものは私の思考のメカニズムにおいてはなんら役割をもっていないようだ。思考の要素として役に立ちそうな心的実体は、いくつかの記号と、「おのずと」増殖し、たがいに結びついていく明確なイメージである。もちろん、そうした要素と適切な理論的概念との間にはある結びつきがある。もう一つ明らかなことは、最終的に論理的概念にたどりつきたいという欲求が、前述のごとき要素をともなった、このかなり漠とした作用の感情的な基盤になっているということだ。
アントニオ・R. ダマシオ 『生存する脳』(講談社、2000年)
この前段には、マンデルブローもファインマンも似たようなことを言っていると書いてあります。
そうはいっても自分は言葉(文字)で考えている気がするぞという人も少なくないと思うのですが、言葉(文字)もまた脳内では「絵」つまりイメージとして処理されているという本を読んだこともあります(何の本だったかは失念)。
この『生存する脳』でも、著者は「思考はイメージでできている」ということをやや難しげに書いています。
思考が言葉や恣意的な記号を含んでいることはだれも否定しないだろう。しかしそうした言明が欠いているのは、言葉も恣意的な記号もその基盤はトポグラフィ的に構造化された表象にあり、したがってイメージになり得るという事実である。
(同上)
考えを言葉に落としてしまうと、思考の幅がぐっと狭くなる可能性があるということですね。それが考えるべきことがらに焦点を当てるという意味でプラスに作用するときもあれば、発想を限定するときもあるということか。