問いは変わらずとも、答えは変わりゆく
私の尊敬する藤村 厚夫氏は、こんなことを書いています。
私の尊敬するピーター・ドラッカーは、こんなことを書いています。
私は、今でもこの会話(引用者注=ドラッカーの父とその友人であったシュンペーターとの会話)を忘れることができない。私は、この会話から3つのことを学んだ。1つは、人は、何によって人に知られたいかを自問しなければならないということである。2つめは、その問いに対する答えは、歳をとるにつれて変わっていかなければならないということである。成長に伴って、変わっていかなければならないのである。3つめは、本当に知られるに値することは、人を素晴らしい人に変えることであるということである。
P.F.ドラッカー 『プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか』『[コラム]会長のつぶやき』 @IT通信 No.387
「こんなことを書いています」といっても藤村さんの文章は1行だけじゃないか、と思われるかもしれませんが、さにあらず。誰のどの文章をどういうタイミングで引いてくるかという選択は、地の文章と同じくらい書き手を表すものだと思います。
それはともかく、まず2つめにハッとしました。良い問いを手に入れたら、それを繰り返し問うていけばいい。そうですね。変わっていく答えをモニターすることで、人生の残り時間を何に使いたいかを考える材料が手に入ると思います。
では、どんな問いがよいか。1つめの「何によって人に知られたいか」という問いは、どこか居心地が悪い。
「人に知られたいと思って生きているわけじゃないよ」と反論したくなったり、
「人さまに知られるべきほどの立派な人間でもないし…」と卑下したくなったりします。
でも実際は、何かで人に認めてもらって死んでいきたいとは思います。
よく考えていくと、人に知られることにともなう不安や恐怖を明るみに出してくれるような、迫力のある問いです。
僕の好きなのは「何を遺せるか」「何を世に問うたか」という感じの問いなのですが、
結局は上の問いをお上品に言い直しただけで、それゆえ自分に考えさせる力に欠けるという気がしてきました。