「Sharing is a Trap」から考察するソーシャルメディアが果たす役割について
WIRED誌に掲載されていた、「ソーシャルという罠」と
それに関するお三方のクロスレビュー(湯川さん、池田さん、高広さん)の
記事を読んで触発されたので上記の問いについて考察してみたいと思います。
原案の主張としては
共有を最善の価値とすると
社会主義や共産主義に陥ってしまい、
経済が縮小すると同時に全体主義になって
しまうという懸念点をフックに、
ソーシャル時代のプライバシー問題を懸念した内容である。
印象に残った言葉としては
「私達個人は本のように読まれる存在になる、
つまり私たちは私たち自身のウィキリーカーになっている」
などがあった。
確かに、今の人々は(日本ではまだまだだが)
自分自身をインターネット上で公開し、他者から
見られる存在に自ら進んでなっている。
検索エンジンで何を欲しているのか意思表示し、
Twitterで何をしているのか発信し、
Facebookで誰と友人かを露呈し、
Foursquareで何処にいるか知らせる。
そういった風潮に対して危惧を
示す人がいるのは当然の流れだと感じる。
しかし、私からすると上記のように
個人情報の発信を行う人々は少なからず
「見られている」自分を意識して
情報を開示しているのではないかと考える。
あくまでも意図的に作った自分自身を
人々の間で共有しているのだ。
感じたことを意図せずにTweetすることは
あるにせよ、誰も自分がトイレを
しているところを共有したいと思わないであろう。
それこそ高広さんがいう所の
「HyperMe」の考え方に近いところでしょう。
確かに意図しないところでの情報が
抜き取られるのは問題であるが、
(iPhoneの位置情報が全て蓄積されていたなど)
果たしてその「意図的な自分自身」の共有が
プライバシーを抹殺すると言えるものになるのだろうか。
そしてもう1点、私が声を大にして言いたい事は
人は1人では生きられないという事である。
友人が、家族が、恋人が色々な考え方や価値観を
教えてくれる(与えてくれる)からこそ私があるのだ。
今の私達の考え方は恐らく周囲の環境に
依る部分が大きいであろう。
つまり、考え方を教えてもらってきたからこそ
人は自分自身の考え方を持って生きることができる。
そして今、人々は世界に向けて
「自分を与える」ことが出来るソーシャルメディアという
ツールを手にしたのである。
1人の人間としての情報を社会に発信
していくことによって社会は
よくなるのではないかと私は考える。
(意図的に作られた自分でも構わない)
このエントリーのタイトルに答えるとすると
ソーシャルメディアとは
「人々の価値観を受け取ることによって
自己の価値観を多様化するためのツール」であると考える。
匿名のかりそめの姿で意見を述べるよりも、
もしくはパプティコン(監視される家)を恐れて
放っておかれることを望むよりも、
自己のアイデンティティを他者と一緒に
創り上げていくことのほうがよっぽど
人生は楽しく思えますが、いかがでしょうか?