確実に存在する、「確実」依存症と向き合おう
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今日は30年ほど前のあるシーンから書き始めることにします。
そのとき、私はある地方で高校受験を控えており、志望校を決めなければいけない時期になっていました。
候補に挙がっていたのは、H高とG高の2つ。
H高は私の住所では学区外であり、「越境入学」枠になるため合格のハードルが非常に高いのに対して、
G高は学区内のため特に問題なく受かるであろう、という状況でした。
そこで、どちらにしようか悩んで・・・はいませんでした。
実は私自身は特に悩むでもなく、H高校にしよう、とさっさと決めていましたが、
ところが在籍していた中学校がそれになかなかGOを出さないのです。
ハードル高いから受かるかどうか不安視してるんだろうな、と私は思っていましたが、
本当の理由は少し違っていました。
「合格可能性が読み切れない高校を受験したい、という希望に対して
中学側がなかなかYESと言わない本当の理由」
それは、単に「受かるかどうか分からない」のではなく、
・不合格だったときに、親が中学に怒鳴り込んできて
「なぜ受からないようなところを受けさせたんだ!!!」
とクレームをつけてくることがあるから
だったのです。
正直言ってまったく予想外の理由で、これを聞いたときは唖然としました。
こういう、「確実な保証を求める親」に、学校は悩まされていたんでしょう。
だからその可能性を考えるとなかなかYESとは言いにくい、のはわかります。
唖然としたのは、
受験に失敗したからと言って学校にクレームをつけにいく親がいる
ということですね。今で言うモンスターペアレントの走りでしょうか。
そんなに、「確実な保証」が欲しいのでしょうか?
30年前、私は「合格できるかどうか」という可能性を自分で評価して、
自分で志望校を決めました。リスクがあるのは承知の上です。
それを承知して自分で決めた選択である以上、たとえ失敗しても
それは自分の責任であり、「なぜ止めてくれなかったのか」と
学校に文句を言うような発想はまったくありませんでした。
しかし、そうではなく、
「これを選んでおけば絶対確実ですよ、100%保証しますよ」
と、そう言って欲しい人々がどうやら一定数いるらしい。
ということに私が気がついた最初の事件がこれでした。
こんなふうに「確実な保証」を欲しがる人は、判断を他人任せにします。
判断を他人任せにして、「0か1か」という白黒つけた答えを欲しがります。
判断を他人任せにして、その結果だけを欲しがっていると、
自分自身でリスクとリターンを見きわめて適切な投資を行い、
失敗した時の予防策を講じる、ということができなくなります。
そんな「確実」依存症が、これは確実に存在する。
ということに、私たちはそろそろ向き合っていくべきだと思うのです。
そのとき、私はある地方で高校受験を控えており、志望校を決めなければいけない時期になっていました。
候補に挙がっていたのは、H高とG高の2つ。
H高は私の住所では学区外であり、「越境入学」枠になるため合格のハードルが非常に高いのに対して、
G高は学区内のため特に問題なく受かるであろう、という状況でした。
そこで、どちらにしようか悩んで・・・はいませんでした。
実は私自身は特に悩むでもなく、H高校にしよう、とさっさと決めていましたが、
ところが在籍していた中学校がそれになかなかGOを出さないのです。
ハードル高いから受かるかどうか不安視してるんだろうな、と私は思っていましたが、
本当の理由は少し違っていました。
「合格可能性が読み切れない高校を受験したい、という希望に対して
中学側がなかなかYESと言わない本当の理由」
それは、単に「受かるかどうか分からない」のではなく、
・不合格だったときに、親が中学に怒鳴り込んできて
「なぜ受からないようなところを受けさせたんだ!!!」
とクレームをつけてくることがあるから
だったのです。
正直言ってまったく予想外の理由で、これを聞いたときは唖然としました。
こういう、「確実な保証を求める親」に、学校は悩まされていたんでしょう。
だからその可能性を考えるとなかなかYESとは言いにくい、のはわかります。
唖然としたのは、
受験に失敗したからと言って学校にクレームをつけにいく親がいる
ということですね。今で言うモンスターペアレントの走りでしょうか。
そんなに、「確実な保証」が欲しいのでしょうか?
30年前、私は「合格できるかどうか」という可能性を自分で評価して、
自分で志望校を決めました。リスクがあるのは承知の上です。
それを承知して自分で決めた選択である以上、たとえ失敗しても
それは自分の責任であり、「なぜ止めてくれなかったのか」と
学校に文句を言うような発想はまったくありませんでした。
しかし、そうではなく、
「これを選んでおけば絶対確実ですよ、100%保証しますよ」
と、そう言って欲しい人々がどうやら一定数いるらしい。
ということに私が気がついた最初の事件がこれでした。
こんなふうに「確実な保証」を欲しがる人は、判断を他人任せにします。
判断を他人任せにして、「0か1か」という白黒つけた答えを欲しがります。
判断を他人任せにして、その結果だけを欲しがっていると、
自分自身でリスクとリターンを見きわめて適切な投資を行い、
失敗した時の予防策を講じる、ということができなくなります。
そんな「確実」依存症が、これは確実に存在する。
ということに、私たちはそろそろ向き合っていくべきだと思うのです。
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