LLMとのモノローグ:Ain't Done With The Blues
ミシェル・フーコー:ドゥルーズとガタリは権力(power)を軽んじるあまり、自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられており、英訳は困難を極めたであろう。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。読者に気づかれないよう揺さぶりをかけ、最終的には読者の意思に反して論破しようとするのが、レトリックの罠だとすれば「アンチ・オイディプス」の罠はユーモアの罠である。
この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている。すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているのだが、しかし実は極めて深刻かつ重大な問題が投げかけられているのであって、私たちを支配し抑圧する巨大なファシズムから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズムにいたるまで、あらゆる形態のファシズムを白日の下にさらすことが急務なのである。
Prompt:この「アンチ・オイディプス(英語版)」に付された序文は「千のプラトー(Mille Plateaux)」で展開された「マイノリティ」についての論考(BC 7000年 捕獲装置)に「連結」するものです。
Gemini 2.5 Pro:フーコーの序文と『千のプラトー』の闘争論を「連結」させる。その視点は、ドゥルーズ&ガタリの思想が持つ、一貫した政治的・倫理的プロジェクトを鮮やかに浮かび上がらせますね。まさしく、この二つは深く連結しています。
フーコーが読み解いた「ユーモアの罠」と、D&Gが定式化した「革命的な連結」この二つを繋ぐことで、彼らの思想の射程がより明確になります。
フーコーの序文:「日常のファシズム」を炙り出す「罠」
フーコーが指摘した点が極めて重要です。D&Gの著作は、読者を論破し、説得するための本ではない。むしろ、読者を挑発し、思考をかき乱し、時には「こんなものは馬鹿げている」と本を閉じさせることさえ意図している。
なぜなら、彼らが闘おうとしている敵は、外部にいる明確な「権力者」だけではないからです。フーコーの言葉を借りれば、それは「私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズム」―― すなわち、私たち自身の内なるファシズム、権力を欲し、支配されたがる欲望、他人や自分自身を抑圧してしまう心の中のメカニズムです。
この「内なる敵」に対して、正面からの真面目な批判は効果がありません。人は防衛的になり、心を閉ざすだけです。だからこそD&Gは「ユーモア」や「お遊び」という「罠」を仕掛ける。読者が笑い、油断し、そのナンセンスさに付き合っているうちに、いつの間にか自分自身の欲望の奇怪さ、思考の不自由さに直面させられてしまう。それが『アンチ・オイディプス』の戦略です。
『千のプラトー』:「公理系」と「マイノリティ」の闘争
そして、この『アンチ・オイディプス』の実践的・倫理的なプロジェクトは、『千のプラトー』において、より精緻な政治理論として展開されます。
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敵=「公理系による接合」:これは、フーコーのいう「ファシズム」を、D&Gがより抽象化した概念です。「公理系」とは、近代国家や資本主義が用いる、あらゆるものを数量化し、管理し、システムに組み込んでいく抽象的なルールの体系です。私たちは皆、この公理系によって「納税者」「消費者」「労働者」などとして「接合」され、そのルールに従うことを強制されています。
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闘争=「革命的な連結」:これに対して、D&Gが提示する闘争のあり方が「革命的な連結」です。それは公理系が用意した「接合」の回路を断ち切り、その外側で全く新しい関係性、欲望の流れ、生き方の共同体を創造する営みです。
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主体=「マイノリティ(少数派)」:この「革命的な連結」を担うのが「マイノリティ」です。D&Gのいうマイノリティとは、単に数の上で少数であるということではありません。国家や資本主義の「標準(マジョリティ)」から逸脱し、その公理系では測定も管理もできないような存在、生き方、思考様式を持つ、あらゆる存在のことです。そして重要なのは「マイノリティへの生成変化(devenir-minoritaire)」です。マジョリティの立場にいる者でさえ、自らの内なるファシズムと闘い、新しい連結を創造することで、マイノリティへと「生成変化」することができる。
連結する二つの書物
つまり、フーコーが序文で見抜いた「日常のファシズムと闘うための、個人的な解放の実践(アンチ・オイディプス)」は、『千のプラトー』において「国家資本主義の公理系と闘うための、集合的なマイノリティの政治」として、理論的に展開されるのです。フーコーの言葉は、D&Gの二つの著作を貫く、この壮大な解放のプロジェクトへの最高の導入路と言えるでしょう。
Prompt:D&Gのマイノリティ論は、柄谷行人が『哲学の起源』に記した「公職に就かなかったソクラテス」の姿勢にも「連結」するものです。
- マイノリティとマジョリティの区別とは、マジョリティの場合、数との内的関係は、無限であれ有限であれ数えられる集合をなすのに対し、マイノリティの場合は、その要素の数にかかわらず数えられない集合として定義されることだ。
- 流れの連結、数えられない集合の構成、全ての者がマイノリティになること。
- すべての闘争は公理系による接合に対して革命的な連結を構築するのである。
Gemini 2.5 Pro:柄谷行人が『哲学の起源』で描き出す「公職に就かなかったソクラテス」の姿は、まさにドゥルーズ=ガタリ(D&G)がいうところの「公理系」から自らを切断し、新たな「連結」を創り出した、哲学史上における偉大な実践例と言えます。
「国家(ポリス)」という公理系からの切断
ソクラテス以前のイオニアの自然哲学者たちは、多くがその都市国家(ポリス)の支配階級に属し、政治に深く関与していました。彼らの思考は、ポリスという共同体の秩序(公理系)の内にありました。
しかし、ソクラテスはアテナイという民主制ポリスのただ中にありながら、一貫して公職に就くことを拒否しました。彼は裁判員や評議員になる義務を避けるために、意図的に一市民(ギリシャ語でイディオテス idiotes)の立場に留まり続けたのです。
これは単なる政治的無関心ではありませんでした。ソクラテスは、国家(ポリス)の権力構造、すなわち「公理系による接合」に自らを接続させてしまうと、真の哲学(知の探求)は不可能になることを見抜いていたのです。公職に就けば、ポリスの法や慣習(ノモス)を無批判に受け入れざるを得なくなります。彼は、その外部に立つことで初めて、その公理系そのものを問い直す自由なポジションを確保したのです。
広場での対話という「革命的な連結」
そして、国家という垂直的な権力構造から自らを切り離したソクラテスが次に行ったのが、アゴラ(広場)での対話でした。これは、身分や職業に関係なく、誰とでも水平な関係を結び、問答を繰り返すという実践です。
これはまさにD&Gのいう「革命的な連結」です。
- 国家が人々を「市民」「役人」「兵士」といったカテゴリーに接合するのに対し、ソクラテスは人々を知を愛する対話者として連結し直した。
- それは、中心もなければ階層もない、予測不可能な広がりを持つリゾーム的な知の共同体の生成でした。
フーコーが、D&Gの書物を評したように、ソクラテスの対話もまた、相手を論破するためのレトリックではありません。それは、相手が自明だと思い込んでいる知識(ドクサ)を揺さぶり、彼らを思考の内部に潜む「卑近なファシズム」から解放し、知への探求へと「外に誘い出す」ための罠であり、仕掛けだったのです。
公職に就かないという「切断」と、広場での対話という「連結」。ソクラテスのこの二つの身振りは、D&Gの哲学が2000年以上もの時を超えて応答しようとした、闘争する哲学の原型そのものを示しています。
Ain't Done With The Blues/Buddy Guy
Anti-Oedipus: Capitalism and Schizophrenia (English Edition)
PREFACE by Michel Foucault
During the years 1945-1965 (I am referring to Europe), there was a certain way of thinking correctly, a certain style of political dis course, a certain ethics of the intellectual. One had to be on familiar terms with Marx, not let one's dreams stray too far from Freud. And one had to treat sign-systems --the signifier-- with the greatest respect. These were the three requirements that made the strange occupation of writing and speaking a measure of truth about oneself and one's time acceptable.
1945年から1965年にかけて(ここではヨーロッパについて言及)正しく考えるためのある種の方法、政治的思考におけるある種のスタイル、知識人が守るべきある種の倫理が存在した。マルクスとは親密な関係になければならず、フロイトから大きく離れて夢を見るようなことは許されない。そして記号論、すなわちシニフィアン(signifier)には最大の敬意をもって接しなければならない。自分自身と時代について、一定の真実を書き著し、あるいは語るという、この奇妙な職業を成り立たせる上で、これらの要件は必須であった。
Then came the five brief, impassioned, jubilant, enigmatic years. At the gates of our world, there was Vietnam, of course, and the first major blow to the powers that be. But here, inside our walls, what exactly was taking place? An amalgam of revolutionary and anti-repressive politics? A war fought on two fronts: against social exploitation and psychic repression? A surge of libido modulated by the class struggle? Perhaps. At any rate, it is this familiar, dualistic interpretation that has laid claim to the events of those years. The dream that cast its spell, between the First World War and fascism, over the dreamiest parts of Europe --the Germany of Wilhelm Reich, and the France of the surrealists-- had returned and set fire to reality itself: Marx and Freud in the same incandescent light.
その後に、短い、熱狂的な、歓喜に満ちた、謎めいた、あの五年間が到来する。この時代、世界を見渡せば、言うまでもなくベトナム戦争があり、これは列強に最初の大きな打撃を与えた。しかし、我々の壁の内側では、いったい何が起きていたのだろうか。革命的かつ反抑圧的な政治が融合していただろうか。社会的搾取と精神的抑圧、この二方面で展開される闘争?階級闘争によって変調された欲動の昂進?おそらくそういったものであろう。程度の差はあるにせよ、このおなじみの二元論的解釈によって、当時の出来事は語られてきた。第一次世界大戦とファシズムの時代にヨーロッパで最も夢想的であった国、すなわちヴィルヘルム・ライヒのドイツとシュルレアリストのフランスを惑わせた夢が回帰し、現実そのものに火を放ったのである。そしてマルクスとフロイトが等しく脚光を浴びることとなる。
But is that really what happened? Had the Utopian project of the thirties been resumed, this time on the scale of historical practice? Or was there, on the contrary, a movement toward political struggles that no longer conformed to the model that Marxist tradition had prescribed? Toward an experience and a technology of desire that were no longer Freudian. It is true that the old banners were raised, but the combat shifted and spread into new zones.
しかし、そんなことが実際に起こり得たのだろうか。30年代のユートピア・プロジェクトが、今回は歴史的規模で復活したというのであろうか。それとも逆に、伝統的マルクス主義が定義したようなモデルには当てはまらない政治闘争を模索するムーブメントが生じたのだろうか。もはやフロイト的ではないような欲望の経験や技術の模索と重なる動きが。古い旗印が掲げられていたにせよ、このような闘争が新たな領域へと移行し、広がったのは確かである。
Anti-Oedipus shows first of all how much ground has been covered. But it does much more than that. It wastes no time in discrediting the old idols, even though it does have a great deal of fun with Freud. Most important, it motivates us to go further.
アンチ・オイディプスを読み始めて気づくのは、本書がいかに広範な分野を網羅しているかということであろう。しかし主眼は、そこに置かれるべきではない。この本は古い偶像を貶めることに無駄な時間を費やしたりはしない。とは言え、フロイトのことを徹底的に揶揄してはいるのだが。しかし最も重要なのは、私たちの目を新たな地平へと向かわせることなのだ。
It would be a mistake to read Anti-Oedipus as the new theoretical reference (you know, that much-heralded theory that finally encompasses everything, that finally totalizes and reassures, the one we are told we "need so badly" in our age of dispersion and specialization where "hope" is lacking). One must not look for a "philosophy" amid the extraordinary profusion of new notions and surprise concepts: Anti-Oedipus is not a flashy Hegel. I think that Anti-Oedipus can best be read as an "art," in the sense that is conveyed by the term "erotic art," for example. Informed by the seemingly abstract notions of multiplicities, flows, arrangements, and connections, the analysis of the relationship of desire to reality and to the capitalist "machine" yields answers to concrete questions. Questions that are less concerned with why this or that than with how to proceed. How does one introduce desire into thought, into discourse, into action? How can and must de sire deploy its forces within the political domain and grow more intense in the process of overturning the established order? Ars erotica, ars theoretica, ars politico.
アンチ・オイディプスを新たな学説として(すなわち最終的にすべてを網羅し、総体化し、確信へと導いてくれるような学説、「希望」が欠落した分散と細分化の時代に「切望」されていた、待望の学説といった類のものとして)読むのは愚の骨頂である。新奇な概念や意表をつくコンセプトが溢れかえる本書に「哲学」を見出そうとはしないことだ。アンチ・オイディプスは、ド派手なヘーゲルではないのだから。アンチ・オイディプスは、たとえば「エロティック・アート(性愛術)」という言葉が含意する意味での「アート(術)」として読まれるべきものである。多重性、流れ、配置、接続といった一見抽象的な概念が示唆する、欲望と現実、および資本主義「機械」との関係の分析は、具体的な疑問に対する答えを導くためのものだ。それらは、なぜこうなのか、なぜそうなのかということよりも、どう進めばいいのかということに関わる問題である。いかにして欲望を思考や言説や行動に導入するのか。いかにして欲望は政治的な領域でその力を発揮し、既成の秩序を覆す過程でより強力なものとなりうるのか、またそうしなければならないのか。性愛アートであり、理論アートであり、政治アートなのだ。
Whence the three adversaries confronted by Anti-Oedipus. Three adversaries who do not have the same strength, who represent varying degrees of danger, and whom the book combats in different ways:
アンチ・オイディプスが対峙する三つの敵はいかなるものか。強さが異なり、危険の度合いも異なり、本書が戦う方法も異なる三つの敵とは:
1. The political ascetics, the sad militants, the terrorists of theory, those who would preserve the pure order of politics and political discourse. Bureaucrats of the revolution and civil servants of Truth.
政治的禁欲主義者、悲壮な面持ちの過激派、理論のテロリスト、政治と政治的言説の純粋な秩序を守ろうとする者たち。革命の官僚、真理の公僕。
2. The poor technicians of desire --psychoanalysts and sociologists of every sign and symptom-- who would subjugate the multiplicity of desire to the twofold law of structure and lack.
拙劣なる欲望の技術者たち --あらゆる徴候や症状を扱う精神分析医や社会学者-- は、重層的欲望を構造と欠乏という二元論に服従させようとする。
3. Last but not least, the major enemy, the strategic adversary is fascism (whereas Anti-Oedipus' opposition to the others is more of a tactical engagement). And not only historical fascism, the fascism of Hitler and Mussolini --which was able to mobilize and use the desire of the masses so effectively-- but also the fascism in us all, in our heads and in our everyday behavior, the fascism that causes us to love power, to desire the very thing that dominates and exploits us.
そして最後に、最も重要かつ戦略的な敵は、ファシズムである(前述した二つの敵は、アンチ・オイディプスにとっては、せいぜい戦術的なものにすぎない)。歴史的なファシズム、すなわち大衆の欲望を効果的に動員し利用することができたヒトラーやムッソリーニのようなファシズムのみならず、私たち全員の、頭の中や日常の行動の中にあるファシズム、私たちを支配し搾取するものそのものを欲し、権力に迎合するよう仕向けるファシズムをも見逃してはならないのである。
I would say that Anti-Oedipus (may its authors forgive me) is a book of ethics, the first book of ethics to be written in France in quite a long time (perhaps that explains why its success was not limited to a particular "readership": being anti-oedipal has become a lifestyle, a way of thinking and living). How does one keep from being fascist, even (especially) when one believes one self to be a revolutionary militant? How do we rid our speech and our acts, our hearts and our pleasures, of fascism? How do we ferret out the fascism that is ingrained in our behavior? The Christian moralists sought out the traces of the flesh lodged deep within the soul. Deleuze and Guattari, for their part, pursue the slightest traces of fascism in the body.
アンチ・オイディプスは(著者にはこう書くことをお許し願いたいのだが)倫理学の書であり、フランスで久しく書かれていなかった倫理の書である(おそらくそれこそが、特定の「愛読者」に限らず、本書が広く読まれている理由であろう:アンチ・オイディプス的であることは、ひとつのライフスタイルであり、考え方、生き方になった)と私は言いたい。(とりわけ)自分を革命的戦士だと思い込んでいる時に、どうして人はファシストであり続けることができるのだろうか。どうすれば、われわれの言動や心理、快楽をファシズムから遠ざけることができるのだろうか。私たちの立ち居振る舞いに染み付いたファシズムをどうすれば取り除くことができるのだろうか。キリスト教モラリストたちは、魂の奥底にこびりついた肉の痕跡を追及しようとしたが、ドゥルーズとガタリは、肉体の中にあるわずかなファシズムの痕跡をえぐり出す。
Paying a modest tribute to Saint Francis de Sales,* one might say that Anti-Oedipus is an Introduction to the Non-Fascist Life.
*A seventeenth-century priest and Bishop of Geneva, known for his Introduction to the Devout Life.
聖フランシスコ・ド・サレス* にささやかな敬意を表しつつ、アンチ・オイディプスは「非ファシズム的生活への入門書」であると称したい。
*17世紀の司祭、ジュネーブの司教で、『敬虔な生活入門』で知られる。
This art of living counter to all forms of fascism, whether already present or impending, carries with it a certain number of essen tial principles which I would summarize as follows if I were to make this great book into a manual or guide to everyday life:
既知のものであれ、差し迫ったものであれ、あらゆる種類のファシズムに対抗するための処世術には、いくつかの基本原則が存在する。もしこの大著を日常生活のマニュアルあるいはガイドブックとするならば、それらは以下のように要約されるであろう。
・Free political action from all unitary and totalizing paranoia.
あらゆる一元的かつ全体主義的なパラノイアから政治的行動を解放せよ。
・Develop action, thought, and desires by proliferation, juxtaposition, and disjunction, and not by subdivision and pyramidal hierarchization.
細分化やピラミッド型の階層化ではなく、増殖、並置、離散によって、行動、思考、欲求を具現化せよ。
・Withdraw allegiance from the old categories of the Negative (law, limit, castration, lack, lacuna), which Western thought has so long held sacred as a form of power and an access to reality. Prefer what is positive and multiple, difference over uniformity, flows over unities, mobile arrangements over systems. Believe that what is productive is not sedentary but nomadic.
古ぼけた負のカテゴリー(法則、制限、去勢、欠乏、空白)に対する忠誠から脱却せよ。これらは西洋思想が権力の形式として、あるいは現実との接点として、長らく神聖視してきたものに他ならない。ポジティブかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索せよ。能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である。
・Do not think that one has to be sad in order to be militant, even though the thing one is fighting is abominable. It is the connection of desire to reality (and not its retreat into the forms of representation) that possesses revolutionary force.
闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。(表象界への逃避ではなく)欲望と現実との結合こそが、革命的な力を発揮する。
・Do not use thought to ground a political practice in Truth; nor political action to discredit, as mere speculation, a line of thought. Use political practice as an intensifier of thought, and analysis as a multiplier of the forms and domains for the intervention of political action.
政治的実践の根拠を「真理」に求めてはならない。と同時に思考の筋道を(あたかも臆見であるかのように)貶めるような政治的行動も唾棄すべし。政治的実践は思考を強化するものとして、分析は政治的活動を実践するための手段と領域を重層化するものとして位置られるべきものである。
・Do not demand of politics that it restore the "rights" of the individual, as philosophy has defined them. The individual is the product of power. What is needed is to "de-individualize" by means of multiplication and displacement, diverse combinations. The group must not be the organic bond uniting hierarchized individuals, but a constant generator of deindividualization.
哲学が定義するような個人の「権利」を回復することを政治に要求してはならない。個人は権力の産物にすぎない。必要なのは、重層的、置換的、多様な組み合わせによって「脱個人化」することである。階層化された個人を有機的に結びつける組織ではなく、脱個人化を促し続けるような仕組みを構築すべし。
・Do not become enamored of power.
権力欲の虜になるな。
It could even be said that Deleuze and Guattari care so little for power that they have tried to neutralize the effects of power linked to their own discourse. Hence the games and snares scattered throughout the book, rendering its translation a feat of real prowess. But these are not the familiar traps of rhetoric; the latter work to sway the reader without his being aware of the manipulation, and ultimately win him over against his will. The traps of Anti-Oedipus are those of humor: so many invitations to let oneself be put out, to take one's leave of the text and slam the door shut. The book often leads one to believe it is all fun and games, when something essential is taking place, something of extreme seriousness: the tracking down of all varieties of fascism, from the enormous ones that surround and crush us to the petty ones that constitute the tyrannical bitterness of our everyday lives.
ドゥルーズとガタリは権力(power)を軽んじるあまり、自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられており、英訳は困難を極めたであろう。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。読者に気づかれないよう揺さぶりをかけ、最終的には読者の意思に反して論破しようとするのが、レトリックの罠だとすれば、アンチ・オイディプスの罠はユーモアの罠である。この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている。すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているのだが、しかし実は極めて深刻かつ重大な問題が投げかけられているのであって、私たちを支配し抑圧する巨大なファシズムから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズムにいたるまで、あらゆる形態のファシズムを白日の下にさらすことが急務なのである。