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文学部出身のライターとして取材現場などで勝手に感じた文化の匂いをお届けしたい

日本流グローバリゼーションはないのでしょうか?

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 グローバリゼーションの世の中をどう生き抜くのか。そんなセミナーの取材をしました。少子高齢化社会に向かっている日本では、長期的に見て内需の拡大は見込めない。一方、BRICsに代表される新興市場には、大いなる期待が持てる。だからこそ、日本企業はグローバルに事業を展開しなければならない。そのためには、どうしたら良いのだろう。そんなテーマで議論が交わされていました。

 事実はそうなのかも知れません。しかし、そう上手くいきそうもありません。日本独自の成り立ちが、精神面で日本企業のグローバリゼーションを阻んでいるからです。お先真っ暗なのが、今の日本の現状のようです。だらこそ、私は思うのです。お国柄が大事なんだと。

 真っ向からグローバリゼーションを否定するようですが、他国のやり方になじむのが苦手なのであれば、日本らしさで勝負してはどうなのでしょうか。それとも、海外に対して主張できないほど、日本は恥ずかしいお国柄なのでしょうか。確かに戦争に負けました。負けて自信を失い、欧米に追従することが、再生の道だと信じてきました。

 ITも同じです。欧米、特に米国の論理を色濃く反映したITは、日本独自の文化とは相容れません。昔、中小企業の経営者向けにITの啓蒙サイトを作っていた時に、日本のIT文化を創造したいと言いながら、最終的にはアメリカ流を押し付けざるを得ない自分に愕然としたものです。

 懐かしい言葉ですが、“勘ピュータ”という言い方がありました。コンピュータならぬ“勘ピュータ”は、ドンブリ勘定で、数値的な裏付けもなく、そんなことでは、コンピュータを駆使する欧米には太刀打ちできないといった、蔑みがこめられた言い方です。

 最近でも、国際会計基準という印籠が跋扈しています。不透明で曖昧な日本的な会計基準は、世界では通用しない。だから、米国流の会計基準に従うべきだという現実が背景にあります。確かにグローバルに市場を広げることで、経済のスケールメリットがあるわけですから、企業の論理としてグローバルに展開する必然性はあると思います。

 しかし、それで何が生まれるのでしょうか。貿易摩擦を解消するために、積極的に食糧を輸入した結果、日本の食糧の自給率は世界の先進国で最低の基準になってしまいました。減反政策によって、米が生産できる田圃は干上がっているというのに、人間が生きていくために必要な食糧すら、自給できない国になってしまったのです。

 NOと言えない日本というベストセラーは、NOと言えない日本に対する警告を発したわけですが、いまだに日本はNOと言えない状況が続いています。開き直って、ドンブリ勘定がなぜいけないのかを考えてみてはどうでしょうか。勘定をごまかすことは確かに、避けるべき行為です。しかし、欧米流に目先の変化に一喜一憂して、計算ばかりしていることで、未来が開けるとは思えません。

 明治維新以来、日本は欧米に追い付くことで、近代化を進めてきました。しかし、そこには、あくまでも日本らしさを保ちながら、欧米の考え方との折り合いをつけようとする姿勢がありました。アメリカ流のやり方の限界が見えてきた今、改めて日本としてのアイデンティティを見直す時期なのではないでしょうか。道は遠いかも知れませんが、そうした思いを持ち続ければ、その延長線上に日本のIT文化の形が見えてくるはずです。

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