「大沢樹生氏の非実子騒動」について取材依頼がありました
「大沢樹生氏の非実子騒動」...もう話題性としては過去のものになりつつある。
けれど、なんでこのタイミングでブログにするかと言うと、当時の感情的な気持ちが収まって冷静になる時間を要したことと、性差による抑圧についての考えに至ることが出来たからだ。
事は「大沢樹生氏の非実子騒動」の最中、僕のところに、知り合いの女性ライターの方から取材というか、インタビューというかアンケートの依頼が来たところから始まる。
問われた内容はおおむね以下のようなものだ。
- 子どものDNA鑑定をした結果、自分との血縁関係がなかった場合、どう感じるか
- その子どもを変わらず育て続けることはできるか
ということを、男性に対して「自分ならどう思うか?」というものだ。
これを受けた時、自分は嚇怒した。憤怒した。なんて失礼で不遜な質問だ、これを知って「誰かのためになるか?」「傷つくのは誰だ?」って。
彼女(ライター)曰く、「女性と違い、男性は本当に自分の子どもなのかどうかは信頼しかない」とのこと。だが、女性だって「病院における新生児の取り違え」というケースだって有りうることじゃないか。
ここに、女性の「子供への愛情に優位性がある」という考えが透けて見えるような気がした。
で、上記のような質問を統計的アンケートとして分析する場合、YES/NOのどちらかしか答えが出ない、という統計結果が出ることはあり得ない。統計学において2者択一の質問に対してどちらかがnullとなることは無いから、YES/NOどちらの回答もあったはずだと想像する。どちらかの答えしか得られないとすれば、手法やサンプリングとしての不備がある時だろう。
だから、この質問が統計的に正当なデータ収集が出来ていたとすれば
「DNAは関係なく自分の子供として考え愛情に変化はない」
というパターンと
「DNAの繋がりのない子供であれば愛情は希薄になる」
という回答が導かれることになる、
では、この、「愛情を失する」という結果に対して、質問は一体誰のためになるのだろうか?そして誰が傷つくのか?と考えると
- 父親の非実子と知りながら、家庭で育てられている子供たち
- 父親が非実子であると知りながら、家庭で子供を育てている父母
といった人達だろう。
「愛情を失する」という結果は、それが例え1%程度のマイノリティであっても、苦悩しながら家庭にいる子供は「もしかしたら自分は愛されていないかもしれない」という不安、危惧を感じさせてしまうことになるだろう。或いは父母も同様だ。
僕がこの質問に対して、感情がざわついたのは「父親だったらDNA上の繋がり有無によって愛情が希薄になるのだろう」という、性差による決めつけで「子供たちが不安になるような結果を導く野次馬的好奇心」に違和感を感じたからなんだと思う。
けれども転じて今、僕はこの体験からふと社会、ビジネス環境を顧みた。
そこには、環境や慣習、常識が性差によって、抑圧されていることは多い、ということだ。特に女性に対して。
例えばビジネスの世界で言えば、採用、昇進、評価。或いは、育児休暇後のスムーズな職場復帰、与えられる仕事内容。制度や規定は平等に整備されていても、実際には女性はありとあらゆる場面で、無意識な慣習的抑圧にさらされていることを改めて気づかされた。
今僕は、今回の取材を申し込んできたライターの彼女に対して怒りはない。むしろ感謝したいと思っている。
何故なら今回の非実子騒動に伴う取材は、普段社会の中で、決めつけや抑圧下にある女性の気持ちを、改めて男性である僕が知ることが出来た貴重な体験だったから。
少子高齢化によって、労働人口がピークアウトしていくことが明白な現在、僕らはこれらの慣習、常識を変えていかなければならない。無意識な抑圧から女性を解放していかなければならないのだ。
<了>
正林俊介