ボーダーレス化するパブリックな言論について-この素晴らしい憂鬱で批判的な時代に感謝をこめて-
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少し遅いご挨拶になりますが、明けましておめでとうございます。
今年も皆様にとって実り多い年になりますよう心より祈念しています。
そしてこれが僕にとって、今年最初のブログとなります。
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去る年は、経済、外交、文化など様々なジャンルで多くの憂鬱なニュースがありました。誰かが語る憂鬱な言葉にあふれていました。
国政選挙で自民党が圧勝し、今後を憂う声。
尖閣諸島をはじめとした領土問題に、危機感を訴える声。
円高が進みシュリンクする国内経済の今後について。
オリンピックでは、「猫ひろし」氏のカンボジア代表候補入りへの批判。
原発に関する多くの不安と、それを非難する2元的な言論軸。
遅々として進まない雇用問題の解消。
etc
だけど、僕は1年の間、たくさん笑って過ごすことが出来ました。
誰かが語る憂鬱な言葉で、僕の笑顔を奪うことは出来なかったのです。
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僕はこの場で、それら憂鬱な言葉や様々な批判的意見を否定するわけではありません。
歴史的に見て、権力や大勢への批判こそ、自由や変革を勝ち取るエネルギーになったのですから。
だからと言って、自らが批判的になる必要がある、と言っているのではありません。それらを冷静に「雰囲気に流されず」受け止めるべきだと考えています。
なぜ、こんな当たり前のことを書くのかといえば、今問題提起される、多くの批判的意見は「誰かの利益」につながるものが多いから。
例えば、IT業界で「情報漏えいのリスク」が語られれば、その反対に「リスク回避するためのサービス」があることを語るように。
恐らく、僕だって今年も多くの批判的意見を挙げることになるでしょう。
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今さら語ることでもないですが、インターネットは多くの情報を一般化することに成功した革新的なインフラとなりました。それを発展させたのはSNSというプラットフォームであることは間違いないと考えます。
だからこそ、情報を受け取るにあたって高いスキルが必要とされる様になったこともまたひとつの事実です。
「キュレーション」「エバンジェリスト」などそれらの情報を、まとめながらひとつの意見として集約し、分かりやすく伝える役割を定義する言葉も生まれました。
ブログという媒体もまた、意義としてはそれと非常に近しいものです。ただし、先に挙げた役割と異なるのはパーソナルな部分に立脚したものであるために、単純なつぶやき程度のものとパブリックに発した意思表示とが混沌としているところでしょうか。
しかし、だからこそメディアが発する情報とは異なる、利害を超えた情報を得やすい場所であるとも言えます。
ジャーナリズムという理念から、すでに遠く離れてしまったメディアに対して、その役割は一般化しつつあると僕は考えます。
ブログという媒体は、この一般化しつつある役割の過渡期における、テンポラリーな言論の場なのでは無いかと思うのです。
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今年もたくさんの憂鬱で批判的な言論が交わされるでしょう。
それらの中から、皆さん自身の利益になるものを、拾ってくださればと思います。
誰かが語る憂鬱な言葉に流されなければ、僕らはそれによって、たくさんの喜びを、幸せを、得ることが出来るのだから。
それでは、皆さん今年もよろしくお願いいたします。
<了>
-正林 俊介-
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