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ナショナリズムは拡大する或いは幻想である -台東区と大田区の土地所有権主張をうけて-

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正確には「中央防波堤埋立地」というらしい。

この地をめぐって台東区と大田区が激しい所有権の主張を繰り広げているという。

それぞれに主張するところがあり、この件について「どちらのものである」とも僕は言わないけれど、アレレ?これ何かに似ていてちょっと違う、と思うわけなのだが。

まあ、すでに言われていることであるけれど、すなわち尖閣諸島などの「国の所有権をめぐる領有権主張」と似てるなぁ、と。でも何か違うんだよなぁ。

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国の問題と違うのは、国家間ではなく行政区どうしの主張というの違いなのだけれど、これが結構重要なことなのだ。

国家間の問題となれば、場合によっては武力衝突をも引き起こしかねない、緊張感を有した問題となるし、国民の中に「ナショナリズム」が排他的志向に働く大きな問題だ。

けれど、台東区と大田区であれば武力衝突で血が流れる、ということはまず無い。日本という国の中のローカルな問題だから。

けれど例えばこれ、鎌倉、室町時代なんかであれば、鎧甲冑に身を固め、いざ行かん!なんてことにもなりかねない問題なんだけど・・・。じゃあ、なんで時代が違うと、同じ問題でも認識がこうも異なるのか?と言うと「ナショナリズムの認識範囲が違う」からだと思う。

かつての人々は、自分の属性、社会への帰属意識といったアイデンティティを血縁に求めた。だから昔の人は、せっせと家系図なんかを作成して「誰と誰は血族である」「当家はゲンジの血統である」なんてことをして、それが重要だったのだ。

この血縁による属性認識が徐々に地縁に移行していき、江戸時代に成熟を向かえた幕藩体制が出来上がる。すなわち、「○○藩の者」という意識がベースになって帰属意識が構成されていて当時の人々が、「日本」という国家意識は希薄だったことはあまりにも有名だ。これを覆そうとしたのがいわゆる幕末期から明治維新の出来事であることも同じく周知のことだろう。

そして、このような帰属意識こそ「ナショナリズム」なんだと思う。

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なぜこのように、ナショナリズムの範囲は拡大したのか?それは、人々が接する社会環境の広がりがあったから、と僕は考える。

血縁を重要視した時代は「我が家」とその「周りの家々」という区分であり、地縁であれば藩主の「領地に住む人」と「領地の外に住む人」という区分で属性が定義されたのだ。

繰り返しになるけれど、台東区と大田区の所有権の主張があったとして、これによって武力衝突は決して起こらない。そんな危機感がおこることも無いだろう。

けれど、例えば尖閣諸島などの問題になれば、最悪の場合、武力衝突の可能性を想像してしまうのではないか。

この2つの違いはもちろん国家と行政区との違いであって、先に挙げたとおりだけれど、本質的な違いは何なのか。それは多分、権威・権力が影響や行使できる最大範囲なのかどうかの違いなのだと思う。

そして、重要なのはこの帰属意識たるナショナルリズムは権力者によって都合よく利用されることがあるということ。

それは、例えば太平洋戦争時の日本でもあったようなそれである。

ナショナリズムが人々が接する社会の広がりによって、その範囲を広げてきたということは、逆に言えば、いま<strong>現在の国家意識というものは絶対的なものでは無い</strong>という事だ。

特に危機感をあおられるそれは、幻想の危機であるかもしれないのだ。

いま、領土問題をめぐって煽られる危機感は「国」という概念を超えてこれを俯瞰してみれば、幻想の危機に過ぎないのではないか。

もちろん、拉致問題のように行き過ぎた国家意識のなかで引き起こされた事件は、毅然たる態度で臨むべきである。それは、恐らく国の概念を超えてかんがみても許さざる犯罪的行為だから。

けれど、いたずらに特定の国を排斥する行為や雰囲気は、権力者によって作られた危機かもしれない。

だから、感情的に例えば中国や韓国を非難するのはナンセンスだ。

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インターネットとSNSの発展によって人々は自分たちが関わる環境は大きく広がった。

安易なことを言えば、これによって国を超えた新しい「ナショナル」の構築がでたらば、もっと世界は平和になるかもしれない。

ただし、「ナショナル」を形作るには権威や権力の存在が不可欠だ。それは宗教なのか、世界地図上の地域なのか、あるいはネットワーク上で形成される民意なのか。

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会社の理念を改めてみてみた。

そこには、企業という組織体のことだけではなく「社会のためにどのような意義を果たすか」ということが語られている。

<了>

-正林 俊介-

 

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