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ネットを彷徨う、終わりなき旅

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 珍しくテレビを見ていると、ふと懐かしい言葉が出てきた。「空飛ぶ円盤」「アダムスキー型円盤」といったキーワードだ。アダムスキー。なんと懐かしい。
 こんな時、ついついインターネットで「アダムスキー」を検索してしまう。すると終わることのない調べ物の連鎖が始まってしまう。
 未確認飛行物体の別称でもある「フー・ファイター(ロックバンドのフー・ファイターズではない)」を調べていると、Wikipediaに

「空中の不思議な光はほかにも「クラウト・ファイアーボール」(クラウトはドイツ語でキャベツであり、またザワークラウトから転じてドイツ軍に対する侮蔑語でもあった)とも呼ばれたが、「フー・ファイター」が最も一般的と思われる。」

と書かれている。ザワークラウトがなんで侮蔑語になるのかと、ザワークラウトを調べたら、今度は「壊血症」へとつながり、「バスコ・ダ・ガマ」へと連鎖。「プレスター・ジョン」へとつながり、その後は十字軍の歴史をおさらい。エルサレム王の歴史を調べた後、イングランド王とフランス王を巡るお話しに行き着いた時点で、はたと時計を見ると4時間が過ぎていた。

 雨の日、外で遊べないときは小学校に入学する際に買ってもらった小学館の「子供百科事典」を読んで、知らないことを繰り返し調べながら育ったせいか、今でも一度調べ物の旅に出てしまうと、なかなか現世に戻ってくることができない。
 マイクロソフトのエンカルタが日本語化された時にも同じ症状に悩まされたが、Wikipediaがその症状を悪化させている。一般的な百科事典も、その内容に関しては様々な議論が沸き凝る事があるが、議論があるとは言っても十分に吟味され編集責任の所在を明らかにした上で掲載されている記事には違いがない。
 ところがWikipediaの記事は、もっと緩やかなコミュニティの上に作られている。その内容は多くの百科事典よりもこなれていない代わりに、より新しい内容が反映されていることもある。編集・執筆責任の所在は曖昧だが、長い間編集が繰り返されることでバランスの良い視点になっている記事もある。記事ごとに使われる用字、用語が統一されていない面もあるため、Wikipedia内のリンクを辿ってもひとつの統一見解が見えてくるという事もない。
 とはいえ、その内容をどの程度の重さがあるのか、正しいのか間違っているのか。偏っているのか中立的なのかを判断するのは、すべては読む側の考え方だ。
 これは”調べ物”のソースとしての信頼度が高くない事を示しているが、むしろだからこそ、なおさらに調べる事が面白いと思ってしまっている自分がいる。内容が不確定だからこそ、その先に「もしかしたら、別の意見や異なる事実があるのでは」とよけいに興味をそそられるのである。

 Wikipediaに限らず、インターネットで提供される情報が、どの程度、校閲され、確認された内容なのか、全く想像することができない。
 このブログも含め、個人が書きっぱなしにした内容と、コストをかけて長期の取材を行い、それまでの蓄積した取材内容から起こした記事を編集者が確認作業と編集作業を行って掲載するプロセスを経た記事。いずれも「間違いである可能性」はあるが、より後者の方が信頼できるとは言える。
 しかし実際にインターネット上で飛び交う情報は、そもそもの出典元が曖昧だったり、論拠に乏しい事がひじょうに多い。匿名掲示板に書かれた真偽不明の書き込みと大新聞社の記事(これも必ずしも正しいとは思わないが)といった落差の間に、無数のタイプ、種類の情報があり、それら多くの情報が折り重なり、伝わっていく中で情報が変質している事も少なくない。
 同じような事はインターネットコミュニティが形成される前からあったけれど、”オーソライズされた記事”と”オーソライズされていない口伝”では、伝達のスピードが圧倒的に前者の方が早かった。故に一般的には(あくまで一般論だが)、さほど情報の確度に関してそれほど気を遣わなくとも、誰もが簡単に真偽の度合いを測りながら記事を読んでいたと思う。
 ところが最近、特に仕事で関わる20代の人たちと話をしていると、どうもインターネットから得ている情報の質の違いを大きくは捉えていないように感じる事が多い。個人の感想や見解が事実として捉えられていたり、公式な発表と取材を元に書かれた推論と個人の希望的観測から書かれた主張の区別が明確にされていなかったりといった事だ。
 情報の曖昧さの度合いを計る尺度を持たないから(いわゆるバカの壁の一種)という人もいるが、世の中、みんながそれほどバカというわけではないだろう。むしろ、情報があまりに膨大で、あまりに多様であるが故に、その質を評価するという行為そのものを放棄しているのでは?と最近思う。

 さて、なんでこんな事をゴールデンウィークに思いついたかと言うと、これが自分の仕事にもとても大きな影響がある事象だからだ。
 インターネット上で流れる情報は”すべからく総じて曖昧”で、論拠に乏しいものであって、情報の質を評価するまでもなく流して読む。あるいは、発信元なりにしっかりと取材したり、根拠を持って書いた記事も、単なる個人的な見解も、いずれも同列の情報として見る。なんて事がアタリマエになってきたら(一部、アタリマエになってきているように思う)、まともに取材をして、裏を取りながら推測や自分の意見を添えて記事とする、なんて事になんの価値もなくなってしまう。
 実際にはそこまでメディアの形が崩れることは思うのだが、情報の質にかかわらず素早く拡散するインターネットの特質を考えると、出版ビジネスはインターネット化を上手に進められたとしても、なおもかなり厳しい状況と言わざるを得ない。
 それともちょっと考えすぎなのだろうか?

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