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映画「風立ちぬ」と現行憲法と。[感性を刺激する表現]

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本日は8月15日。不思議と時期を合わせるかのように不発弾処理のニュースが報道されています。毎年思うのですが、8月15日は休日にしてもいいのではないでしょうか。68年前、大きな戦いを止めた歴史的な一日、そして平和の尊さを思う日なのですから。

さて、「風立ちぬ」。宮崎駿監督が5年ぶりに世に送り出したアニメーション映画です。公開早々、観てきました。本エントリーでは、ストーリーには触れませんが、まだ観ていなく、先入観を持ちたくないという方は、飛ばしていただければと思います。

今なぜこの映画なのか
宮崎駿関連書籍

私の世代(30代)の多くは、少年・少女時代にいわゆる宮崎アニメ(天空の城ラピュタ〜もののけ姫など)を観てきていると思います。私は、おそらく人一倍、作品の世界に没入するタイプのようで、宮崎駿監督の発言や思考の軌跡を追った書籍、イラスト集を入手し、少しでもその作品に何が描かれているのかをつかもうとしてきました(余談ですが、ジブリ美術館は自宅から徒歩圏内にあります)。

しかしながら、「風立ちぬ」。今なぜこの映画なのか...という違和感がしばらく拭えませんでした。別に作品自体が悪いとは思いませんが、これまでの作品との違いにしばし茫然としました。観終わった直後、「風立ちぬ」の作品作りは、宮崎駿監督が自分の中に抱えてきた矛盾する思いや状態(たとえば、戦時下においても、戦争に関心を示さずに自分なりに生きていく人間[後述する父親の話]や、反戦を掲げながらも戦闘機に惹かれるなど)を自分なりに納得して行く過程だったのではないか、という感想を持ちました。私としては、自分の振り返りは別のところでしていただき、やはり、ファンタジーを作って欲しかったな...、とも思いました。

この点に関し、宮崎駿監督自身は、次のように発言しています。

リーマン・ショックが来まして、時代の歯車が回りだしたのに、いままでの発想ではダメだ。ファンタジーじゃなくて、何か違うものをつくらなきゃと思いました

他のインタビューでもこの趣旨の発言をされています。

確かに、リーマンショックのような経済の混乱のあと、3・11の大震災が起き、原発事故もあり、想像の世界を超える事態に日本は見舞われました。あらゆる想像力を駆使して作り上げたファンタジーを現実の世界が上回ってしまった、ということなのだろうと思います。

ただ、一方で、宮崎駿監督には次のような発言もあります。

才能がある人間がいれば今はやはりファンタジーを作るべき。しかも、今まで見たこともないファンタジーを作らなければいけない時代が来ていると思う。僕が今の時代に向けて作るのなら『もののけ姫』だが、もうすでに作ってしまった。見たこともないファンタジーを作るためには相当なインスピレーションと力がないとできない。それはハイ・ファンタジー(異世界を舞台にしたもの)ではなく、現実感のあるファンタジーだろう。(ストーリーが)ひっくり返ってひっくり返って何が本当なのか分からなくなりながら、単純化していくようなもの。今の自分が作るのはちょっと無理だと思う
 

少し寂しくなる発言なのですが、本心なのだろうと思います。これまでの作品がある意味、奇跡的な完成だったのかもしれません。

憲法改正反対に見える理想主義

「風立ちぬ」を観たあと、先日の参院選の争点の一つであった憲法改正に関連し、スタジオジブリが2013/7月号に限ってPDF配布している小冊子「熱風」(2013/8/20まで公開)を読みました。宮崎駿監督は、「憲法を変えるなどもってのほか」というタイトルで寄稿しています。この内容を読んで、自分なりに理解したことがあります。

宮崎駿監督は、理想を特に大切にしているのではないか、と。私にとって、賛同できることは多くはなかったのですが、憲法改正に真っ向から反対していることはよく伝わってきました。

子どもたちに向けて作品を送り出してきた宮崎駿監督ですが、これまでの子ども目線の映画とは異なる「風立ちぬ」も、自分の父が生きた昭和前半を描きつつ、子どもたちに登場人物を介して彼の理想を伝える役割を持たせている気がしました。次のような発言からヒントが得られるように思います。

(前略)いずれにしても戦争前の、ぼくの記憶にない世界は灰色にしか思えなかった。ところが親父は「いやあ、いい時代だった」って言うんです。「浅草はよかった」とかって。かつてはこれが信じられなかった。

ですから、そこから何を学ぶかといったら、負け戦のときは負け戦のなかで一生懸命生きるしかない、というようなことでしょうか。
(前掲書より)

ところで監督自身が自分の映画で涙を流した、という報道が多くあり、当初、私はこの映画に組み込まれた純愛にそこまで感じるところがあったのか、と不思議に思っていましたが(もう私はすでに邪悪な人間です)、どうやら違うようです。以下の言葉を見て、納得感がわきました(そこかよ?!という気持ちになりますが)。

(前略)日本から来た技術者はほんとうにひどい扱いをされたことがわかります。まずもって工場の中は見せてくれない。用意した別の部屋に連れていって、関係する数字がおかれた書類をもってきて、そこで勉強しろと渡すだけ。それが技術連携だというのです。(中略)ですからユンカース工場視察の場面では、そんなことも思い出されまして、ついつい涙腺が……。
(前掲書より)


純愛映画と観る人もいるでしょうし、別のところで涙する人もいるでしょう。映画の見方は人それぞれだと思います。これまた余談ですが、私の知っているママ友は、この映画を観た後、それまでの夢とは打って変わって、プラトニックな恋愛の夢を見るようになった、と仰っていました(それまでの夢が気になります...)。

違和感の正体

さて、理想を大切にし、スタジオの隣につくった保育園の子どもたちを見て、「君たちの未来は真っ暗だ」なんて言えないとする監督。

私は宮崎駿監督のような方が理想を大切にすることは尊重できます。たとえ、自分と意見が異なっていても、子どもたちを対象とした場合、彼の果たす役割は重要だと思うのです。

ただ、「風立ちぬ」で感じた違和感は、その子どもたちへメッセージが、大人向けに作り上げられた映画の中に込められている、この矛盾だったのかな、と思います。

憲法9条と考えること

前述した憲法改正に関する争点の一つに9条の改正があります。自衛隊の位置づけには様々な解釈がありますが、ここでは、自衛隊の服務の宣言を見たいと思います(ちょうど昨夜、NHKスペシャル「自衛隊と憲法 日米の攻防」でこの宣言をしている自衛隊員の映像を拝見しましたが、ひたむきさが伝わってくる表情でした)。

宣誓 私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法 及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。

つまり「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め」は命をもかけることを意味しています。最高指揮官である内閣総理大臣の命令があれば、死ぬことも要求される自衛隊隊員が、自分たちの存在を明記していない日本国憲法を遵守する宣誓をしています。

憲法が明らかに実態と合っていなくても、その憲法の改正に反対すると言うことは、現状を憲法に合わせるための行動を取るか(支援するか)、国家の基本原理・原則である憲法を(逆に)軽視することになるのだと私は思います。素晴らしい理念を掲げた憲法を変えたくないという気持ちには共感はしますが…。

自分が陥りたくないと思う行動パターンは、現在起きている問題を直視することなく、理想だけを夢想すること。分かりやすく言えば、宮崎駿監督の作品が好きだからと言って、彼が言うことを批評する間(ま)を持たず、その通りだと思うこと。

考えることを放棄している態度の表れだと思います。この場合、意見の根拠を確認する議論も成り立ちません。

建て前が重視される日本だと思いますが、私自身の意見としては、この件に関しては、もはや建て前だけでは成り立たない程度に矛盾が大きくなり、国の置かれている立場も変わってきたのではないかと感じます。理想と原則は区別するべきで、原則を少しずつ理想に近づけていけるよう不断の努力をしていくべきだと思います。

私にとって違和感を感じた「風立ちぬ」。私が宮崎駿監督の作品に感じた違和感は、自分が置かれている今の政治、社会状況が背景にあるからかも知れません。
その意味では、確かに、今、登場するべき作品だったと言うこともできそうです。
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