EUの個人情報保護に関する歴史的背景の体感(中編)
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前編では、EUにおけるデータ保護規制の背景の一つとして、ホロコーストを挙げました。私はその背景を意識せずに、昨年、ホロコーストに関連する場所を訪問していました。この訪問と私が今、担当している顧客の個人情報保護に関する仕事が図らずも結びつき、改めて今の仕事の重要性を感じています。中編では、自分の記憶が色あせないうちに、その旅で何を感じたのかを写真とともに書き留めておき、後編ではホロコーストを実行するために利用された個人データという話を続けたいと思います。私と同じような仕事をしている方にも個人情報を守るセキュリティの仕事の原点が見えてくるかもしれません。
さて、2014年10月、カタールのドーハ経由でポーランドに入りました。新しい会社に移る前の休暇を利用した単独旅行でした。折角の機会なので、家族では行きづらい所へ行こうと考え、ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」を読んで以来、いつか行かなければ、と思っていたアウシュヴィッツを目的地としました。
コストの安いフライトプランのため、16時間かかってワルシャワ・ショパン空港に着きました。ワルシャワで二日間過ごした後、旧市街のクラクフ、そして、旅の一番の目的地であるオシフィエンチムの旧アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かいます(ちなみに、旅のプランを立てるまで、アウシュヴィッツはドイツにあるのだ、と思い込んでいました...)。




旧アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュビッツ博物館)は、クラクフからバスで向かいます。1時間半ほどで到着します。この訪問にあたっては、アウシュヴィッツ博物館初の外国人ガイドである中谷剛さんのガイド本「新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内」で予習をして行きました。多くの映画や書籍を通して、この収容所の持つ重い意味は理解していたつもりです。

予習をしていたからか、実際に訪れた際には淡々とその現場を確認するような動きとなりました。天気も良かったため、ビルケナウはその広大な敷地がのどかな牧場のように見えました(木造の収容施設も馬小屋にしか見えないほどの簡素な造りだった)。ただ、この旅から半年経った今も、施設の細部まで記憶に残っています。受けたインパクトは大きかったのだと思います。おそらく一生記憶に残る場所になるのだと思います。
大量の子どもたちの靴には、小さな靴でありながら、装飾が施され、かわいい靴も多くありました。親がその靴を用意した時の気持ち、それを受け取った子どもたちの姿を想像させられるものでした。
軽く扱おうとしてしまえばできてしまう命のはかなさと、掛け替えのない重さも痛感した訪問となりました。


ヨーロッパの国々ではナチスのシンボルである旗や挨拶、敬礼などが法律で禁止されています。軽々しく表現できないほどの悲劇と、実際にナチスの行動を止められなかった反省が原体験として共有されているのだと思います。日本の政治家がナチスを引き合いに話をすることがこれまでも散見され、その度に批判されてきました。その批判を過剰だな、と私はこれまで感じていました。訪問を終えた今は、これらの発言がなんと軽はずみで、ナチスへの言及が持つ重みへの理解が浅いのだと思うに至っています。この件に関しては、無知は罪なのかもしれません。
次回は、ナチスが行った600万人とも言われる虐殺、このような大量の虐殺を可能にした個人データとその利用について見ていきたいと思います。

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