言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚(感性を刺激する表現)
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たまたまテレビを点けた際に放映されていたのですが、いのちを色に再生する、生涯をかけて、色を追うという姿と、その引き出される色に引き込まれ、身動きがとれないほど見入っていました。
思わず取り寄せた志村ふくみさんの本には、
「まだ粉雪の舞う頃だった。小倉山のふもとの方まで行ったとき、桜の木を切っている老人に出会った。その桜の枝をいただいて帰り、炊き出して染めてみたら匂うように美しい桜色が染まった。」(「色を奏でる」志村ふくみ・文 井上隆雄・写真(ちくま文庫))
とあります。
桜の咲く季節、開花していないのに木全体が色づいていることに気づきます。とりわけ、2013年の東京は厳しい寒さから一転、唐突に暖かくなるという気候で、桜の幹や枝も一気に色づいたことが印象に残りました。
2011年の震災以降、初めてゆっくりと見られる桜だったかも知れません。
さて、志村さんは、
「九月の台風の頃、近江の方で桜をきるからというしらせをうけたので飛んでいった。しかしその桜から出た色は匂い立つことがなかった。色はほとんど変らずベージュがかったピンクだったが、色に艶がなかった。なぜだろうと思ううちに、植物にも周期があって、春を迎えるために桜が幹の中に、枝の先々まで花を咲かせる準備をしていたのだということに気がついた。」(同書)
と述べており、その話を聞いた詩人の大岡 信さんが「言葉の力」という文章にまとめられています。
(実は、志村さんの本には、「紬を唾液でぬらしながら紡いでゆくのだが、娘のものと、老婆のものでは糸の艶が全然違うという。生命あるものの姿として当然のことである。」とも記載されています。コメントしづらいです。)
「このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。」(「中学校『国語2』言葉の力」大岡 信 (光村図書出版))
私は普段、長い文章を好んで書かないのですが、それは紡がれた言葉から人間全体が反映されてしまうことを恐れていたからなのだと思い当たりました。
IT分野のアーキテクトと言う今の仕事も、言葉の一語一語が大切だと日々実感します。
ソリューションとなる技術的な内容を、相手の言葉に置き換えて説明をする能力、それはやがて桜の花びらの色となる木全体の活動のように、自分の活動の精髄が問われることなのだと感じています。自分が表現されることを恐れつつも、その恐れを克服する意思を失わずに進みたいと思う刺激となりました。
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