エンジニアは「システム」嫌いなのか?
「実は、コミュニケーションが上手でないので技術職を選びました・・・」と話すエンジニアに会うことがある。それも、まれではなく、決して少なくないといった印象だ。
二人の子供はクリスマスモードで、かなり興奮気味のため、ゆっくり本を読むのはお風呂の時間になっている。最近、読んだ本であるが、『ものつくり敗戦 「匠の呪縛」が日本を衰退させる』がある。刺激的なタイトルである。(どこかのサイトか雑誌で紹介されていて先月あたりに買っておいた。)読み始めると、非常に興味深く、また技術者にはやや耳の痛い内容かもしれない。いが、著者は理化学研究所の木村英紀先生であり、その点からも実に深い。
科学/技術史から整理を進め、技術におけるある過ちを戦時の判断やその後も引きずる根を呪縛と表現して警告している。
内容の詳細には触れないが、日本の技術が苦手とするものの一つが「システム」であるとしている。(その他は、「理論」「ソフトウェア」としている点も実に面白い。)
システムとは、広義にとればそれは、入出力を伴い相互作用する諸要素集合であり、まとまりをもつ全体のことである。産業革命にて、「道具」が「機械」に発展し、同著が指す「第三の科学革命」で「機械」が「システム」に発展した欧米諸国と比較し、日本はむしろ、「機械」から「道具」の精緻に進んでしまったとしている。
このことが、労働集約型技術から資本集約型技術へ、脱皮できない状況を引き起こしている要因の一つでもあるというのだ。無論、ボトムアップ型のカイゼン活動等を通じ、技術の姿を漸進させたとされる。しかし、基本的に技術者の集合が基礎となっており、普遍性の構築を避けるがために集約した資本(単なるお金のことではありません)が十二分に活用できずにいるとされる。
堅く書いてしまったものの、現場でもよく見られることだ。エンジニアが各々得意な領域を持つことは決して悪ではなく、歓迎されるべきだ。しかし、以下、私見ならが、水平的な互いの領域、垂直的(事業上の垂直性)な事業関係、また後継/教育的な知の継承の観点で、その普遍性を相対的に軽んじているように思えることがある。
組織の規模や、成長の時期/フェーズにもよるが、組織を構成しようとする責任/意欲あるべき者は、自らが率いる全体である組織を、相互作用し有益なアウトプットを生み出す全体としてのシステムとして機能するような、意識は必要ではないだろうか。プレイングマネジャーである難しさはあるものの、「匠」の領域に固守し周囲/環境と接触的な接点を持たないことは、システム化を押し進めることはないだろう。
狭義のシステムを構築するエンジニアは、広義のシステムとして構築できているのだろうか?