AIとビッグデータが超えられないポラニーのパラドックス
もうかなり昔ですが ハンガリー出身のマイケル・ポラニーさんが第二次大戦後「暗黙知の次元」を書いてナレッジマネジメントの初期の時代を沸かせました。その心は・・・・「人は語ることが出来る以上のものを知っている・・・」と言う謎のような主張でした。 それが21世紀、職を巡るスマート機械と人の知との間の闘争の中心主題になっています・・・
暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)
<出所 アマゾン>
映画トランスフォーマー ジェネシスでは2017年悪の人工知能であるスカイネットがIoT上で誕生します・・・・^^
<出所 http://www.gencoupe.com/media/119584-first-genesis-coupe-transformer.html >
IoTの時代が本格化する入口の時期が始まり「機械との闘争」や「セカンドマシンエージ」(エリック・ブリュニョルフソンさんら著)などの書籍が書かれ、ナレッジマネジメントの世界でも「ビッグデータ重視(トーマス・ダベンポート)」、それに対する反論など、機械の知による人の知の置き換え問題、機械が職を奪うかと言う問題が国際的にも騒がれています。(例、シンガポールの国際ナレッジマネジメント学会の基調講演「ビッグデータは敵か幻か友か」、台湾生産性本部主催のレッジマネジメント講演の主題はビッグデータ、共に2015年9月前半に実施)
その中で慶応大の鶴光先生が日経の経済教室(2015年9月15日付け朝刊)に「技術革新は職を奪うか」と題して投稿しています。そのポイントは「ポラニーのパラドックス」と言われるものです。「ポラニーのパラドックス」に関して2014年に米国MITのデイビット・オーター教授が論文を書いています。オーターさんの学術造語なわけですね。
「ポラニーのパラドックス」は機械の知と人の知の置き換え問題の本質論と考えられているので解り易く説明します。
■ ポラニーのパラドックスとは形式知、シミュレーションの限界を意味する
ハンガリー生まれのマイケル・ポランニーは「人は語れる以上の事を知っている」と述べ暗黙知の重要性=人に付随したケーパビリティの重要性を提起しました。解り易く言えば運転の教科書にはベテランドライバーの経験により獲得した知識のほんの一部しか記述できていないと言うのが典型例です。理論として形式知化できるものには限界があると言う見方です。
その見方をスマート化などAIによるシミュレーションに当てはめると、シミュレーションは飽くまでも人の頭脳の働きの真似でしかなく、それは形式知化された理論に基づきます。シミュレーションは現象の中から特徴を抽出して実行する手法ですから、どうしても一部に切り捨てが生じます。「人は語れる以上の事を知っている」とは機械の知は人の知のすべてをシミュレートできる訳ではなく、例えば答えは探せても問いを発することはできません。フレーム問題と言う常識も欠けています。また暗黙知理論はヒューマンポテンシャル運動などが前提としている「人の持つ無限と仮定される潜在的な能力」を前提としています。(ここの領域の科学的説明は早晩、脳科学と進化心理学が解明するでしょう)一方のコンピューターの無限の可能性は「ムーアの法則の継続」です。従って比較的定型的な分野、パタン化できる分野、答えを探す分野では非常に強力です。
■ 機械の知と人の知は代替財か。補完財か?
果たしてロボットと働く人々、AIとホワイトカラーはお互いを置き換える敵(代替財)なのでしょうか、それともお互いがお互いを補完する補完財なのでしょうか。
注) 机と机の関係は代替財 椅子と机の関係は補完財
18世紀に起こった産業革命後、馬車が自動車に置き換えられ多くの馬が失業しました。書店チェーンのボーダーズはネット書店のアマゾンが成長したため倒産し、多数の失業者を出しました。一方少人数で運営するアマゾンはAIを駆使した販売を行います。
創造の経済論を著したリチャード・フロリダは「クリエイテイブクラス」(ソフトウエアエンジニア、芸術家、コンサルタント、金融や企画など)と「サービスクラス」(理髪業、配管工、レストランのサービスなど)と言う新しい働き方を示しました。どちらかと言うとフリーランサーに近い二つの働き方は共に非定型業務をこなします。このような仕事は機械の知の攻勢に対して代替財として置き換えられることはなく、補完財として共存します。一方「ポラニーのパラドックス」の理論に基づけば、定型化された仕事はホワイトカラーもブルーカラーも共に機械の知に代替財として置き換えられると言う事になります。
ポラニーのパラドックスは面白いですね。