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言うは易し行うは難しの倫理:オリンパス事件によせて

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ビジネススクールでのethics(倫理)の講義は、最後の最後まで何のために存在するのかよくわからなかった。

というのも、当事者ではない自分にとっては、あまりに当たり前のことで、こんなことをこの年になって学校で学ばなければいけないほど、アメリカ人には道徳がないのか・・・とさえ訝った。

しかしながら、パワーゲームの中に人々が放りこまれた際に、如何にもろくこの当たり前の倫理が崩れ去るのかを、その後、マスメディアを通しても、そして比較的間近でも見ることになった。

直近で言えば、オリンパスの問題。何代にもわたって損失問題を先送りし粉飾し、皆が少しずつ手を染めたがゆえに、誰も主責任を取らなくてすむようになった恐ろしい構図だ。

一番根が深いと感じるのは、社内でかかわり合った人々は皆私腹を肥やすためではなく、「会社のため」と思い、嘘に嘘を重ねていっただろうことだ。(もちろん、保身はあっただろうが)

積極的に関与しなかった人々だって、「小学生が見ても明らかにつじつまのあわないおかしな事実」に気がつかないようにするために、意識的に思考停止を行っていた違いない。

外部者からは、あまりに当たり前の倫理だが、村社会の当事者にとっては、嘘をつくことが「会社を外部から守ること」「会社のため」で、見て見ぬふりをすることが、「村社会を生きること」「会社のため」にすり替わっている。会社ぐるみの隠ぺいの典型的なパターンだ。

これは日本特有の問題ではない。アメリカではエンロン事件に端を発し、エンロンと一緒になって粉飾決算をした監査法人がつぶれ、二度とこのような問題を起こさないようにと内部統制法が施行された。

さて、もし仮に私がオリンパスの役員だったとして、私はどのような行動をとるのだろうか?

ウッドフォード氏のような行動を起こせるのだろうか?

アカデミックに習ったethicsの重要性について今は否定する気はない。
無知は倫理にすら気がつかない。
さて、それでは倫理に対する知識があるのに、それに基づいて行動することに躊躇がある時には何が有効なのだろうか?

最近の私はとってもシンプルに考えている。
夫の目を見つめて、正面から、自分の考えととった行動を話せるのか?である。
信頼できる心の鏡があると、心強い。
そしてその鏡は出来れば自分がいる村から少々遠い世界にあるとなおよし。

弊社が現在、取締役を外部で固めているのもそういうところにある。

オリンパス事件、ここで膿を出し切れるかどうかで、会社の再建がかかっている。

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