不信の時代
Truth is not what is, but what others can be brought to believe. -- Michel de Montaigne
真実とは事実のことではない。皆が信じられるものが真実なのだ。―― ミシェル・ド・モンテーニュ
たまたま読んでいた本で引用されている格言です。16世紀フランスの哲学者ミシェル・ド・モンテーニュの言葉とされていますが、出典が書かれていなかったので、誤りが含まれているかもしれません。ただ真実と事実の関係を捉えたこの言葉は、いま非常に重要な意味を持っているのではないでしょうか。
地球は丸い。地球は太陽の周りをまわっている。人間はサルから進化した、等々――これらは「事実」として多くの人々に受け入れられていますが、本当にこの分野を研究している専門家でもない限り、実際にはモンテーニュが言うところの「真実」でしかありません。つまり私たちは「大勢の科学者がそう言っているから」「教科書に載っていたから」「昔からそう言われているから」といった理由でこれらの「事実」を事実として受け入れているだけで、本当に宇宙から地球を見たのでも、数億年の時間をかけて進化を観察したのでもないわけですね。従って私たちが信じる誰かが別のことを言い出したら、「真実」は別の姿に変わる可能性があります。
実際に米国では、インテリジェント・デザインと呼ばれる進化論否定が一定の支持を得ていることはご存じの通り。僕はこの説はまったく支持できませんが、それとて僕が進化論を専門に研究した結果ではなく、進化論が多くの科学者に受け入れられている理論であるからに過ぎません。その意味ではインテリジェント・デザインを信じる人々がいる(しかも21世紀の米国に!)ことは理解できます。
この「真実」と「事実」の差は、社会のなかに健全な信頼感が存在している間はそれほど問題ではありません。しかし政府やマスメディア、学界、企業に対する信頼感が大きく損なわれたらどうなるか――客観的で揺るがないものであるはずの「事実」は粉々に砕け散り、無数の「真実」が乱立することでしょう。これは多かれ少なかれ、いまの日本に起きている現象ではないでしょうか。
このところ、滋賀県大津市で起きたいじめ自殺事件がメディアとネットを騒がせています。学校や教育委員会、警察の対応は言語道断であり、騒動も当然の結果ではあるのですが、一方で加害者側関係者の本名や顔写真までが流出するなど、ネット上の反応は過剰とも思えるほどの域に達してきました。中にはこの事件とその後の隠ぺい問題を、「3.11後の政府と東電の態度にそっくりだ!」として両者を重ね合わせ、自らが「真実」を暴くことを正当化する声も存在します。もはやたら・ればを論じる段階ではありませんが、仮に信頼感を保つことのできた組織が1つでも存在し、その組織がこの騒動を適切に処置することを約束していたら。1つの立脚点が生まれ、それを土台に「義憤」を収束させることができたのではないでしょうか。
これと同じ構図は、それこそ原発事故やエネルギー問題を筆頭に、いまやあちこちで目にすることができます。信頼感が崩壊しただけでなく、不信というマイナスの状態が生まれ、どんな事実も真実を生み出すことができない状態。もちろん戦前の日本のように、ある権力が恣意的に真実を決定するという状況は絶対に回避されなければなりませんが、かといって信頼感が失われたままであるのは大きな問題ではないでしょうか。立場の違う相手とお互いに信頼し合うという状態は一足飛びには実現しないにしても、せめて「なぜ事実をベースに話をしているはずなのに話が通じないのか」を一人ひとりが考え、不毛な罵り合いを終わらせるべきではないかと思います。
また政府や企業は、いま何よりも信頼を取り戻すところからスタートしなければならないでしょう。信頼感のない事実は真実にはなりえず、逆に真実の分散を招いてしまうのでしかないとすれば、「いいから事実はこれなんだ」という態度は社会の回復を遅らせるだけになってしまいます。たとえ議論に勝ちたい、という自尊心を満たすのには役立ったとしても。
【○年前の今日の記事】
■ 地下鉄ホームのスーパーマーケット (2011年7月11日)
■ 新聞もインドでつくる時代 (2008年7月11日)
■ 正しい名刺 (2007年7月11日)
■ ビジネスに芸名を (2006年7月11日)