【書評】『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』
2010年ももうすぐ終わり。今年もいろいろなものが話題になりましたが、その中に間違いなく含まれるのが「電子書籍」でしょう。デバイスからフォーマット、コンテンツ、ビジネスモデル、果ては読書という文化がどうなるのかという視点に至るまで、「本」という存在の未来について様々な角度から議論が行われた一年でした。こうした議論に興味を引かれたという方であれば、本書『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』を一読されることをお勧めします。本文だけで450ページという、分厚い本なのですが……。
本書は『薔薇の名前』でお馴染みのウンベルト・エーコと、映画『ブリキの太鼓』や『存在の耐えられない軽さ』などの作品を手がけた脚本家ジャン=クロード・カリエールの間で行われた対談をまとめたもの。タイトルに「紙の書物」とあるように、テーマは紙媒体の「本」と、それに対比される形でのデジタルメディア(電子書籍やインターネットなど)が中心となります。ただしそれは、あくまでも議論の起点に過ぎません。文化とはどのようなもので、それがどのように形作られていくのかという大きな視点にまで、二人の対談は自由に飛躍して行きます。
正直な話、僕はタイトルと著者名だけ見た段階では、本書が「紙の書物」に対するノスタルジーを語り尽くすだけの本かと考えていました。やっぱり本は紙でなくちゃ、インターネットくそくらえ、的な暴言でいっぱいの(笑)。ところが情報技術に対する著者らの態度は非常に理性的なものであり、かつ詳しい知識を持たれていることが其処ここから感じられ、先入観はあっさりと崩されることに。例えばエーコは、権力によって情報をフィルタリングすることを批判した上で、それに対抗しうる力としてインターネットのこんな特徴を挙げています:
たとえば、ローマ人が考えた「記憶抹殺刑」(ダムナティオ・メモリアエ)というのがあります。元老院で、ダムナティオ・メモリアエの判決を下された者は、死後、沈黙と忘却の彼方に追いやられるというものです。戸籍から名前を抹消したり、その人物をかたどった彫像を撤去したり、あるいは生まれた日を忌み日にしたりするんです。ちなみに、スターリン時代にも同じようなことが行われていて、旧指導者を処刑したり国外に追放したりしたときには写真を抹消していました。トロツキーがそうでしたね。今の時代、誰かの写真を抹消しようと思っても、インターネット上に散らばっている古い写真がすぐに出てきますから、なかなか難しいでしょう。なくなったと思ってもじきにまた出てきてしまう。
そしてその一方で、フィルタリングが行われないことのマイナス点について、カリエールがこんな指摘を行っています:
全面的で決定的な検閲というものは、今ではほぼ想像不能になりました。ただ危険なのは、出回っている情報の真偽を確かめにくくなっていること、そして近い将来には我々自身が情報提供者になるということです。この話はすでに出ましたね。それなりの資格を持っていて、それなりに偏向している、善意の情報提供者。そういう人々が、世界を夢想する日々のなかで、悪気なしに情報を捏造することだってあるんです。
さらにエーコのこんな意見も、頭を刺激するものでしょう:
私はもう一つ別の危険があるように思うんです。諸文化は、保存すべきものと忘れるべきものを示すことで、フィルタリングを行います。その意味で、文化は我々に、暗黙裏の共通基盤を提供しています。間違いに関してもそうです。ガリレイが導いた革命を理解するには、どうしてもプトレマイオスの学説を出発点にしなければなりません。ガリレイの段階までたどり着くには、プトレマイオスの段階を共有しなければいけないし、プトレマイオスが間違っているということをわかっていなければいけない。何の議論をするにしても、共通の百科事典を基盤にしていなければなりません。ナポレオンなどという人物は存在しなかった、ということを立証することだってできなくはない――でもしれは、我々が三人とも、ナポレオンという人物がいたということを知識として学んで知っているからです。対話の継続を保証するものはまさにそれなんです。こういった群居性によってこそ、対話や創造や自由が可能になってくるんです。
インターネットはすべてを与えてくれますが、それによって我々は、すでにご指摘なさったとおり、もはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされ、結果的にいまや、世の中に60億冊の百科事典があるのと同じようなことになりかねないのです。これはあらゆる相互理解の妨げになるでしょう。
良くも悪くも、私たちは長い間、紙というメディアに依存するかたちで文化を築き上げてきました。新たに登場したデジタルメディアは、紙メディアにはない即時性・双方向性といった特徴を持っています。デジタルメディアによって紙メディアが絶滅させられるということはあり得ませんが、今後デジタルメディアが強い影響力を発揮するようになることは間違いないでしょう(Sengoku38の例を挙げるまでもなく、そのような状況は一部で既に到来しています)。そうなったとき、社会はどのような課題に直面するのか。二人の識者による対談は、その大きなヒントをいくつも私たちに与えてくれていると感じました。
と書くと難解な本のように感じられてしまうかもしれませんが(450ページ超もあるし)、そこはエーコとカリエールのこと、話の端々に軽いネタを挟んでくれるのでスイスイと読み進めることができましたよ。個人的にお気に入りなのは、エーコが披露しているこんなネタ:
同時に、頭のよさと愚かしさという線引きも当てになりません。電球を交換しなきゃならないとなったら、私は完全な間抜けです。「電球を替えるのに……がどれくらい要るか?」みたいな冗談はフランスにもたくさんありますか。ないですか。イタリアにはかなりたくさんあるんですよ。昔は、ピエモンテ州のクーネオという町の住民たちがだいたい主役でした。「クーネオでは何人で電球を替えるか」。答えは5人です。電球を持つ者が1人、テーブルを回すのに4人という計算です。しかし、同じような話がアメリカにもあるんです。「電球を替えるのに何人のカリフォルニア人が必要か――答え、15人。1人が電球を替え、残りの14人がその経験を共有する」というものです。
さて、僕も最近ではすっかり「ひとりで」本を読むことは少なくなりましたが(笑)、本書を読むという経験を共有して下さる方が、一人でも多くなることを期待しています。掛け値無しで、2010年中に読んだ本ベスト5に入る本でしたよ。
もうすぐ絶滅するという紙の書物について ウンベルト・エーコ ジャン=クロード・カリエール 工藤妙子 阪急コミュニケーションズ 2010-12-17 売り上げランキング : 4655 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
【○年前の今日の記事】
■ 仕事しない、という仕事術 (2007年12月26日)
■ HaaSの時代 (2006年12月26日)