美人に写るための、たった1つの簡単な方法
昨日のエントリで、「顔写真を自動的に美男美女に修正してくれるソフト」なるものが開発されたことを紹介しましたが、誰でも簡単に「美男美女に写っている写真を撮る方法」があることに気づきました。
そのヒントは、最近買って読んでいる本『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』の中に登場します:
被写体との関係が親友なら親友を撮ったドキュメンタリーとなるし、恋人なら恋人を撮ったドキュメンタリーになる。憎悪や侮蔑を抱く対象を被写体にするなら、そのネガティブな感情は絶対にフレームに滲む。「距離をどうとるか」なる命題が空しい理由は、現実の距離(対象への思い)は操作しようがないからだ。
著者の森達也さんは、オウム真理教を対象にしたドキュメンタリー映画『A』などを手がけられた方。被写体を公正中立に撮ることは(目指さなくて良いわけではないが)極めて難しく、「ドキュメンタリーは徹底して一人称なのだ」と主張されています。
以前『フォト・リテラシー』を取りあげたエントリでも書きましたが、写真や動画というものは「事実を客観的に切り取ったものである」と感じてしまいがちです。しかしそれは全くの誤解で、何を対象に選ぶか、空間をどう切り取るか、撮影した素材の中からどれを選び、どう加工するか等によって、作り手の意図に沿った作品に仕上げることが可能なわけですよね。その意味で、森さんが「感情がフレームに滲む」というのはまったく正しく、例えばネコ好きな僕は「小林君はネコを可愛く撮るのが上手いねー」言われることがよくあります(実は撮影テクニックが優れているからではなく、可愛いと感じた瞬間を撮影して、よく撮れたものだけを飾っているからなわけですが)。
というわけで、「美男美女に写っている写真を撮る方法」の答えですが、それは「自分に好意を持ってくれている人に撮影してもらう」ではないでしょうか。なーんだと言われてしまうかもしれませんが、例えば子供の頃の写真は、誰でも可愛く写っているものですよね。それは子供の顔が可愛いと感じるからだけでなく、親や親戚など子供を愛している人物が撮影し、良く撮れたものをアルバムに残しているからというのも重要な理由ではないかと思います。
誰がどんな思いで「この一枚」をつくるかによって、写真の内容は大きく異なる。考えてみれば当然の話なのですが、時として撮影した人間の思いは意識されなくなってしまう、というのが写真/動画の面白さ(怖さ?)なのでしょうね。