【本の特盛り】ビアンカ・オーバースタディ(筒井康隆)
少々古い本になってしまったが、最近続編を読んだので、2012年に書いたものを加筆して再掲載しようと思う。まだ購入できるようである。
●筒井康隆のこと
「ビアンカ・オーバースタディ」日本SF界の巨匠、筒井康隆によるライトノベル(ラノベ)である。念のために書いておくと、日本SF三大巨匠は小松左京、星新一、そして筒井康隆である。小松左京も星新一も鬼籍に入られたので、巨匠と言えば筒井康隆を指すことになった。この間、読書家の同僚に「筒井康隆って誰ですか?」と聞かれてかなりショックだったので、これを機会にぜひ覚えておいて欲しい。
筒井康隆の作品でもっとも有名なのは「時をかける少女」だろう。1972年にNHK少年ドラマシリーズ「タイムトラベラー」として放映された他、1983年には原田知世主演・大林宣彦監督の映画が公開された(どうでもいいが同時上映は薬師丸ひろ子主演「探偵物語」だった)。他にも何度かドラマ化されており、筒井康隆本人は「金を稼ぐ少女」と言っているらしい。
これだけ有名な「時をかける少女」だが、筒井康隆の作品で純粋なジュブナイル(ティーンエージャー向け小説)は珍しい。私の好きなのは、テレパス火田七瀬が活躍する「家族八景」「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」の三部作であるが、それは別にどうでもいい。
筒井康隆の真骨頂はエロとナンセンスと、時々グロを前衛的に表現した点にあると思う。中学時代、友人に勧められた短編集「日本列島七曲がり」が最初の筒井体験だった(NHKの「タイムトラベラー」は見ていたが筒井康隆の名前は意識しなかった)。収録作品の1つ「融合家族」では、同じ家に住む2組の夫婦のエロチックな展開がばかばかしかったし、中学生にはかなり刺激的だった。「郵性省」は、自慰行為でテレポートするという、こちらもばかばかしい話だった。早漏というのは、単に時間が短いことを意味するのではなく、絶頂の前に射精をすることだという解説も面白かった(本当かどうかは知らない)。
他にも「残像に口紅を」では小説内で使える文字が1種類ずつ減っていったり、「朝のガスパール」では、朝日新聞に連載中、パソコン通信の掲示板の内容が本文に取り入れられ内容が変化したり、といったさまざまな試みがあった。
●ライトノベルとしての側面
「ライトノベル」の厳密な定義はないが、一般には「ティーンエージャー向け」「ストーリー展開が(少なくとも表面的には)単純」「キャラクター中心」などの要素を含むとされている。また、いわゆる「萌え系」のイラストが表紙や本文に含まれることも特徴である。
ライトノベルの言葉は1990年代から使われているそうだが、その元祖とされるのは、1977年デビューのSF作家・新井素子(コバルト文庫「星へ行く船」シリーズは竹宮恵子がイラストを描いていた)や、同時期に「少女小説」と呼ばれるジャンルを再確立した氷室冴子である。ちなみに「少女小説」の地位が最初に確立したのは大正期、吉屋信子の小説と中原淳一の挿絵によるものとされている(現在のライトノベルにも挿絵は必須だ)。氷室冴子は「クララ白書」「アグネス白書」(イラストはミスタードーナッツで有名な原田治)や「少女小説家は死なない」などの小説を通して「少女小説」という言葉を再認識させた。
筒井康隆の「時をかける少女」は1965年から連載され1972年に単行本化された。ティーンエージャー向けの単純なストーリーで、芳山和子と深町一夫(ケン・ソゴル)というキャラクターも立っているから、「ライトノベル」と呼んでも差し支えないだろう。
さて、本書「ビアンカ・オーバースタディ」は、「時をかける少女」をベースに、ナンセンスとエロで味付けしたような作品である。作品間に直接の関係はないが、高校が舞台であること、同級生が未来人だったことなどが共通している。しかし、決してさわやかな小説ではない。章タイトルを見てみよう。
- 第1章 哀しみのスペルマ
- 第2章 喜びのスペルマ
- 第3章 怒りのスペルマ
- 第4章 愉しきスペルマ
- 第5章 戦闘のスペルマ
最初は、高校生の主人公の女の子が「精子の観察をしたいから」と、おとなしそうな美形の男の子を捕まえてきて、手で抜いてやる話から始まる。未来人の協力で遺伝子操作を行ない、最初は大成功するが、ちょっとしたミスでミッション達成に失敗して、修復して、最後は大団円、と、ライトノベルではお約束の展開となる。だいたい、経血から卵子が回収できるものなのだろうか。回収できたとしても受精能力をもっているものだろうか。そのへんを疑問に思ってはいけないのがライトノベルのお約束である。
お約束と言えば、ライトノベルにはイラストがつきものである。本書は「涼宮ハルヒ」シリーズで知られる「いとうのいぢ」が担当しており、巨匠筒井康隆に釣り合ったイラストを提供している。ちなみに、筒井康隆は「涼宮ハルヒ」シリーズを絶賛していたそうである。
●メタ・ライトノベルとしての側面
筒井康隆は、あとがきでこう書いている。
この本にはふたつの読みかたがある。通常のラノベとして読むエンタメの読みかた、そしてメタラノベとして読む文学的読みかたである。どちらでもお好みの読みかたで呼んでもらってよいが、できれば両方の読みかたで読んでいただければありがたい。
そこで、メタ・ライトノベルとしての側面を探ってみよう。ただし、筒井作品は意外に奥が深く、さまざまな罠が仕掛けてある。ここで紹介するのは、メタレベルの第1層に過ぎないと思うので、ぜひ、さらに深層まで読み解いて欲しい。
本書でもっとも特徴的なのは、最初の3章が同じ書き出しで始まることだ。それも1ページ半がほとんど同じ語句である。4章は状況が変わるので1ページ、5章の書き出しは他と全く違うが、それにしても普通ではない。他にも、常套句として同じ表現が数行以上続く箇所がある。ライトノベルのパターン化を揶揄しているのだろう。ただ、作品的にはリズムがあって、これはこれで悪くない。
もうひとつ面白いのは、どんな状況になっても男の子は女の子に手を出さないことだ。「抜かれる」男の子はされるがままだし、生物部の顧問は、学校一の美人であるビアンカが「抜いてやる」というのに、「それはまずい」とトイレに行って自分で精液を採集してくる。未来人は、ビアンカの妹ロッソを薬で眠らせて誘拐したのに、着衣姿を見ながら自慰行為を行なう。ビアンカには「せっかく女の子誘拐しておいて、オナニーだなんて」とあきれられ、ビアンカの後輩からは「せめて裸にすりゃいいのに」言われてしまうが、未来人は「おれたち、生身の女の子を直接抱くのが嫌いなんです」と言う。
現実にどうかは分からないが、ライトノベルではこういう草食系の男の子がたくさん登場する。筒井先生は、よっぽど気になるのか、このあたりはかなり直接的に文句を主張している。もっとも、ライトノベルで性行為がほとんど見られないのは、「女の子を殺さないために」で紹介しているとおり(このブログは後日再公開予定)、男の子が「草食化」しているのではなく、女の子を殺さないためではないかと考えている。
「女の子を殺さないために」の著者である川田 宇一郎氏は、このあたり評論家らしい面白い考察をしていたのだが、Twitterでの事であり、見当たらないので紹介は控える。
●エンディング
本書のもっともライトノベルらしいのはエンディングである。ライトノベルの良いところは、気恥ずかしくなるような教訓を、正面から書いても違和感がない点である。ビアンカも、これからは興味本位で下級生をからかったりせず、真面目に勉強して欲しいものである。
そして、本当の最後は次回作につながる文で終わる。あとがきにはこうある。
ところで、ラノベはよく売れるので、たいていは続篇が出る。この作品も続篇を書きたいところだが、あいにくわしはもう七十七歳でこれを喜寿というのだが、喜ばしくないことにはもう根気がなくなってきている。「ビアンカ・オーバーステップ」というタイトルのアイディアがあるから、誰か続篇を書いてはくれまいか。別のタイトルでもよく、大ネズミが出てこなくてもいいので、傑作を書いて大もうけしていただきたいものだ。
同人誌でも何でもいいので、誰か書いてくれないだろうか。などと言っていたら、案外次のコミケあたりで10人くらいが書いていたりして。
【追記】と思っていたら、続編はまったくの新人が書いて2017年に発売された。どうやら筒井康隆のことをそれほどよく知らなかったらしい。知っていたら「巨匠筒井康隆の続編を書くなんて恐れ多い」と思って書かなかったかもしれない。
●おまけ
本書は、第1章とあとがきが、現在もWebで公開されている。あとがきだけでもぜひ読んで欲しい。