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IT技術者教育に携わって25年が経ちました。その間、変わったことも、変わらなかったこともあります。ここでは、IT業界の現状や昔話やこれから起きそうなこと、エンジニアの仕事や生活について、なるべく「私」の視点で紹介していきます。

「お客様の中に、MCSEはいらっしゃいませんか?」

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●お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?
 ドラマの中で「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」というシーンがたまにある。私は、新幹線で実際にアナウンスを聞いたこともある。名乗り出た人を見たことはないが、きっといるのだろう。適切な処置ができればなかなか格好いいシーンだ。

 『ヒポクラテスたち』という映画がある。キャンティーズ解散後、伊藤蘭の復帰第一作である。
 監督の大森一樹氏は自主制作映画出身であり、本作にもその色が強く残っている。友人が京都市内の三条京阪でのロケを目撃したとき、「どこのアマチュア映画かと思った」くらいである。
 『ヒポクラテスたち』は、医学部の6年生を描いた群像劇で、オープニングはこんなシーンだった。

(救急車の音、交通事故があったらしい)
「おれ、危ないとこやったわ。こんな本(医学書)持っててんから」
「そんなんまだええわ、おれなんかこれ(白衣)持ってたんやで」


 人身事故があって、近くに医者がいたら、救急車が着くまでの応急処置を求められるのは当然だが、6年生とはいえ、学生に要求するのは酷というものだ。ちなみに大森一樹監督も医師免許を持っているが、医師経験はない。別の映画でロケ隊に病人が出たとき「監督、ちょっと診てあげてください」と言われ「あほか、患者を殺す気か」と言ったとか。
 ITエンジニアが電車や飛行機の中で呼び出されることはないだろうが、もし呼ばれたとしても『ヒポクラテスたち』の学生と同様、きっと身分を偽るに違いない。学生や大森一樹監督と違い、技術が足りないわけではない。ITシステムの場合は、それぞれがユニークな(唯一の)構成であり、異常事態を収拾するのは担当者でなければ不可能だからだ。人間はどんなにユニークな発想をする人でも、生理的には同じである。考えてみればこのほうが不思議な話である。

 だから、もし緊急事態があるとしたら「システムが異常なので担当エンジニアを呼んでください」ということになる。決して「(誰でもいいので)IT技術者の方はいらっしゃいませんか?」とはならない。

●お客様の中にMCSEはいらっしゃいませんか?
 さて、あり得ない話ではあるが「お客様の中にMCSEはいらっしゃいませんか?」と呼び出されるシーンについて考えてみよう。MCSEは、マイクロソフト認定技術者プログラム(MCP)の上位資格で「Microsoft Certified Solution Expert」のことである(かつてはMicrosoft Certified Systems Engineerだった)。OSのインストールから構成、トラブルシューティングまでできる技能の証明ということになっている。

 システム障害はアプリケーションレベルで起きることが多いので、OSの知識が直接役に立つことは少ない。もちろんOSのバグがアプリケーションに影響を及ぼすことはある。しかし、アプリケーションを開発する過程でOSのバグを回避するように作るのが普通なので、MCSEが呼び出されることはないだろう。呼び出されるとしたら、やはりアプリケーションを設計・作成したエンジニアである。

 たとえばこんな状況が想像できるだろうか。

 現在、列車運行システムの画面が青くなり、エラーコード7Eを表示しています。お客様の中で、どなたかMCSEの方はいらっしゃいますでしょうか?

 たぶんない。いや絶対ない。仮に列車運行システムにWindowsを使っていたとしても多重化されているだろうから、自動的にバックアップ系に切り替わるはずだ。それに、STOPエラーの対応は多くの場合、修正プログラムのインストールだ。運行中に対応できない。飛行機だったら絶望的だ(そもそも飛行機の運行システムにSTOPエラーが出た段階で絶望的だ)。

●アプリケーションこそがすべて
 一般に、ITシステムとはネットワークでもOSでもなく、アプリケーションのことを指す。ウソだと思ったらみなさんのご両親に「コンピュータで動作するプログラムって何をイメージする?」とたずねてみて欲しい。ご両親がITエンジニアでなければ、Webブラウザとメールクライアント、せいぜいWordやExcelだ。Windowsを挙げる人もいるかもしれないが、NETLOGONサービスとかPrint Spoolerと言う人は皆無だろう。

 ビジネスでコンピュータを利用している人も基本的には変わらない。経理部門の人は、経理システムこそがコンピュータである。それも内部構造はどうでも良くて、操作手順が重要である。ネットワークはもちろん、OSですら興味の範疇ではない。私は職業柄多くの利用者と話をするが、自分が使っているOSのバージョンを答えられない人は驚くほど多い。サーバーはもちろん、クライアントについても答えられない。仕事に関係ないからだ。

 もし、あなたがOSのエンジニアだとして(ネットワークエンジニアでも構わない)、自分が顧客の使っているアプリケーションに詳しくなかったらどうなるか。おそらく、顧客はあなたのことをエンジニアとして信頼しない。いくらOSの機能や構成に詳しくても、そんなことは関係ない。顧客にとってはアプリケーションこそがITだからだ。

 だから、顧客と接する場合は、まず顧客が使っているアプリケーションについて深く理解しておく必要がある。ここで「アプリケーションには詳しくないもんで......」などと言い訳をするようでは、顧客の信頼は得られない。内部構造まで踏み込んで理解する必要はないが、用語と操作については一通り知っておく必要がある。

 一般にネットワークエンジニアやOSのエンジニアはOffice系のアプリケーションに弱い。私もそうだ。ネットワーク/UNIXが専門の同僚エンジニアは、ExcelとWordの質問に答えられず、親から「お前、本当に仕事しているか」と言われたらしい。

 これでは顧客の信頼が得られない。私が2010年にOffice 2010のセミナーに参加したのも、顧客の信頼を得るための勉強をするためだ。というのはウソで、本当は冴子先生に会うため。冴子先生については別のブログで書いたが、機会があればこちらでも紹介したい。

 そういうわけで、読者のみなさんは、顧客からアプリケーションのことについて相談されても逃げないでほしい。それが顧客の信頼をつかむコツである。

●追記:お客様の中にお医者様がいらっしゃった
 知り合いの内科医に「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」とアナウンスされたらどうするか尋ねたことがある。「まずは知らん顔する」と言われて驚いた。「専門外かも知れないし、道具もないから恐くて診察なんかできない」ということだった。そうは言いつつ、本当は申し出るのではないかと思うが、かなり勇気のいる行動のようである。やはり人命に直接関わる仕事は責任も重いのだ。

 別の友人は、画像診断が専門の医師である。救急現場で役に立つようなスキルは持ち合わせていないが、誰も申し出なければ仕方なく出ていくと言っていた。ただし、現場にいた看護師に自分の専門を言うと、あからさまに「ちっ、役に立たない」という表情をされたこともあるらしい。脚色もあると思うが、主な仕事は救急隊員が「○○をしてもいいですか」と聞かれたときに「はい」と答えることだそうだ(経験はなくても知識はあるので、判断はできる)。
 高度に専門化された仕事というのは、分野が違えば役に立たないものだ。そう考えると、医師になるために全分野を学習しなければならないというのは、とても大変なことである。

 最近は仮想化によりサーバーとネットワークの境界がなくなったり、開発と運用が一体化したり、ITも全分野の技術を習得しないといけなくなってきたようで、こちらも大変なことである。

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