NHKスペシャル「家で親を看取(みと)る その時あなたは」に寄せて
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こちらの、というよりブログを書くの自体が、物凄く久しぶりです...(汗)
誠ブログをご覧の皆様、ご無沙汰しております。(むしろ初めましてに近いかも?)
実はまったく個人的な事情でしばらくネットを留守にしていたため、ほとんど浦島太郎のような気分です。。
本題はブログのタイトル通りですが2013年4月21日放送のNHKスペシャルから。今回のも魂のこもった力作です。
大切な人の最後を看取る「選択」を強いられる家族の姿に寄りそい、そっと見つめるような番組の姿勢には深く心を打たれると同時に、相変わらず個人が全ての負担を背負わされている現状に対するやりきれなさも、ほろ苦い後味として残った回でした。
つい先日、自分も高齢の祖父を家族とともに病院ではなく家で見送ったばかりなので、他人事と思えない重さがありました。
そこで自分も、体験の共有という意味で少しでも書いておくべきだろうと急いでブログを開きました。(またパスワード忘れてた...)
自分はかつてこういう記事を書いたことがありまして、これは自分の祖母が痴呆をわずらって亡くなるまで間に、個人的に見たり考えたりしたことでした。もう十年単位で結構な以前の話になります。(ブログ自体は数年前に書いたのですが)
そして、今回のお話はその祖母の夫、最終的には百歳を超えていた自分の祖父がつい最近亡くなって、その体験になります。まだ日が浅いので、むしろ前回とは違って心情的な話にはならずに、介護や看取りの実際的な話を誰かのご参考になるように出来ればと思います。
百歳を超えた老人の最後、ということで介護や看護の経験ある人は皆さんさぞ「大変だったでしょう!」とお思いかもしれませんが、実のところ、うちの祖父はちょっとした"モンスター級"(※註:褒めています)というか、とにかくかなり"規格外"の高齢者でした。
なにしろ百歳を超えた時点でまだ要支援の2。車椅子どころか杖さえたまに忘れての完全な自立歩行が可能で、風呂もトイレも全部自分でする、おむつは嫌がってかなり最後の方まで普通の下着で通し、食事も三食われわれ他の家族と同じものを、ほとんど同じ量をぺろっと食べる...という具合で。勝手に自転車は乗るわ、元気な時はヒンズースクワットしてましたからね、百歳で。(そのせいか、焼いてお骨になったらほぼ完全形の頭頂部の厚みが常人の軽く二倍はあったそうで、施設の人がびっくりしていました)
デイサービスに通っていた施設では、祖父よりよほど若いのにずっと弱ってしまった他の高齢者の面倒を見ることさえあったそうです。頭もはっきりしすぎている程で、自分のお金の管理とか最後までしっかりやってました。
そういうハイパーな祖父だったので、本当に亡くなる数カ月前くらいまでは、我々家族の負担も驚くほど軽いものでした。なにしろ高齢者とはいえ「普通の人」のように扱えるのですから。(しっかりしすぎてウルサイな~(笑)とか思う事さえ多々あり)
そんな祖父も、ある時ちょっと泊りに出かけた先で体調を崩してからは、急速に弱り始めて布団に寝ている時間が日に日に長くなって行きました。さすがに本人の気持ちはともかく、他の臓器はじめ肉体の寿命が来たのか、と思いましたが、山奥育ちだったので心臓だけは頑丈そのもので、ここだけはあと何年と言わずいつまででも生き続けるのではないか?と思えました。(故人に「献体」の意志を確認しておかなかったのが本気で悔やまれます...きっと医学の進歩に貢献出来たでしょうに!)
祖父は元気な頃からつねづね「延命治療はしないで欲しい。病院や施設にも入らず、自宅で逝きたい」と望んでいました。
それを叶えるのは家族にとっては当然、大きな負担を伴うことは見えていましたが、それでも家族としては本人の意思を尊重してやるべきだという感覚で一致していました。それまでに祖母を始め何人かの親族の最後を見て来たので、ある種の「信念」みたいなものを共有出来ていたともいえます。
人は、なるべく「自然な死に方」が出来た方がいい。
という確信のようなものが。祖母は痴呆が重くなってからは意志の疎通もよく出来ずに病院で亡くなりましたし、遠方の祖父も意識はありながらほぼ同じように、またずっと以前には若くして癌で亡くなった叔父もいました。この叔父の場合は見上げるくらい体の大きな人で、食べることが本当に大好きだったにも関わらず、最後はチューブから栄養を補給されて苦しんだ末に亡くなりました。「どうせ助からないのなら、せめて好きなものを好きなだけ食べさせてやればよかった」というのが残された親族の後悔でした。
だから、祖父が自分で布団から動けなくなって意識も途切れがちになった時にも、われわれ家族は「胃ろう・気道切開・たん吸引などの機械的な延命装置は使用しないし、求めない」という意見でしっかり一致してました。(もちろんそれには本人の百歳超という高齢も大きかったですが。やることはやったし、さすがにもう若い人のようにはじたばたすることもないよね...という)
ようやく要介護度が上がった祖父の介護は母と、隣市に住むその姉、妹、そして自分(夜間担当)のチーム体制で臨みました。その他に症状に応じてこちらの要望が変わるのに迅速に(百歳超ですから急がないといけないので)対応してくれたフットワークの軽いケアマネージャーさん、適切な措置と落ちいた態度に安心させてもらった訪問看護士さん、長い付き合いのあったかかりつけの開業医の先生など、実質そう長くは無い期間でしたが色んな方面の協力を得ることが出来ました。家族が孤独や過労に陥らないという意味で、大変に有り難かったです。
最終的に、自分が祖父を看取ることになりました。
全くの偶然ですが、その時は珍しく自分が一人で午後中を見ていたのです。百歳を超えた明治生まれのハイパー老人である祖父の最後は、ごく静かなものでした。
亡くなる当日までどうにか経口で流動食ではあっても食事をとり、喉が渇いていたのか、自分が吸いのみで差し出した水をやけにごくごくとたくさん飲んでいました。飲み終ってから突然、きょとんと眼を開けて妙に明晰な目付きで周囲を見回したりしていました。話をしたとかでは無かったけど、あれはとても不思議な瞬間でした。
その日。それまで意識なく苦しそうに下顎呼吸(一般に末期状態に現れる、呼吸のたびに顎で喘ぐような瀕死状態の呼吸)していたのが、目の前で急に呼吸が弱まってヒュ~...と止まった時に、変な話ですが自分は妙に冷静に「あっ止まった」と思い、これはさすがに少し自分はパニックを起こしそうだ、などと考えました。そして、ここは救援を要請するべきだと真っ先に、親よりも叔母たちよりも先に、連絡先を教わっていた訪問看護ステーションの担当さんに電話を入れて事情を話し、来てくれるように頼みました。
「あの、呼吸止まってるみたいなんですが、これはどうすれば?」
「あ~はいはい。大丈夫ですよ~想定してたことですので。今から行きますので落ちついて下さいね」
「あっ、はい...」
電話を切ってから、とりあえずやることも無いので見よう見まねでぺこんぺこんと心臓マッサージなんかしていましたが、まさにその二日前に入れたばかりの床ずれ防止用のエアマットのせいでほとんど効いてなかったようです。それでも看護士さんは子供を優しく諭すような口調で慰めてくれましたが。
到着してすぐに、呼吸の完全に止まった患者の状況を確認し、看護士さんは「ああ、これはもう...頑張りましたね」と言ってくれました。
死亡診断書を書いてもらうためにあらかじめ看取りをお願いしてあった先生への電話(自宅での看取りの場合、死亡診断書を書いてもらわないと警察のお世話になることになってしまうので。)と、今後の相談のためにケアマネージャーさんへの連絡もやってくれました。
ただ、病院で亡くなるのと違って自宅で亡くなる場合、訪問看護の人達が遺体の「清拭(全身を拭いて綺麗にすること)」までやってしまうと介護報酬のほうの料金で割高になってしまうので、そこはこちらが手を出さずにこの先は葬儀のほうの会社のセット料金に含めてもらった方がいいんじゃないですか?などという余りにぶっちゃけた現実的なアドバイスもしてくれて、その場に一人しかいない遺族代表としては素直にそれに従うことにしておきました。(結局、これは後で祖父の娘達が最後のお別れにやりました)
驚くほどすぐに駆けつけてくれた開業医の先生(クリスチャンで教会の牧師でもある)と一緒にお祈りまでしてくれて、同じくすぐに来てくれたケアマネさんに引き継いでからプロらしく淡々と訪問看護の人達は戻って行かれました。
そこからはフットワークの軽いケアマネージャーさんが葬儀社関係の連絡(ギリギリで午後の業務時間内に間に合った)や、お寺関係、介護保険関係の事務の変更や、役所に提出する膨大な書類の準備に必要なもの、100キロを超す鉄の塊である介護ベッドの返却依頼などなど...こちらがボーッとしている前でテキパキと色々な事務連絡をやってくれました。やがて葬儀社の担当の人が来て、その人に引き継いでからケアマネさんも帰って行かれました。自分がやったことは返却予定の介護ベッドから故人を移すための布団を探したことくらいでしょうか?あとは、唯一居合せた遺族として何か決定することがある時に「はい」とか「じゃあそれで」とか言ったくらいで...。
そのうちに隣市から車で駆けつけた叔母達や母が出先から到着し、遺族代表(仮)としての自分の役目はひとまず終わりました。
ついでに言えば、葬儀関係の話になると途端にそれまで以上にリアルな「お金」とか「世間」の話になってくるので、喪主になる上の世代がいる以上は自分に何の決定権もない感じになるので。もっとも、今のところはまだ自分はあくまで補助的な役割ですが、予習はしておかないとな、とは思いましたが...。(できれば順番はずっと後であって欲しい、とは思います)
今回、たまたま祖父の看取りに一人で立ち会うことになった自分は「システム」に最大限、助けられたなぁと思いました。
こうなった時はこの人に連絡して、この人とこの人が対応して、ここまでやったらこの人に引き継いで、遺族が決める選択肢と範囲を提示してくれる。驚くほど全てがスムーズに進んだのは、自分達家族がそれまでの近親の死を通して色んなことを経験し、学んでいたから、それに基づいて最善のシステムを事前に準備出来ていたから、と考えることも可能かも知れませんが。人手も足りてましたし、何より患者本人が百歳を越えてると言うことで、その「死」を語ることに一切の「タブー感」が無かったのも大きい。
百歳を超えた祖父の「死」は、それ自体が一つの「自然現象」であり、人間が逆らうべくもないこと、いやむしろ今さら病院のベッドで人工的に長く苦しむことを思えば「天恵」とすら言ってもいいかも知れないようなもので...とにかく、それは悲壮感や無念さとは全く違っていました。
そこに至るまでに、祖父は会いたい人達に会い、のどを通る好きなものだけを食べ、一番日当たりのいい部屋のベッドで、家族や、可愛がっていた猫や、親戚が連れて来るひ孫たちの声を聞き、遠い昔の夢を繰り返し見ながら、眠る様なおだやかな表情で亡くなったのですから。
その日の為に、これまでの人生の全ての努力や営為はあったのだというように。
現在、国の方針が大きな転換を迎えており、出来るだけ終末期は在宅で、という方にこれからは向かうことになるそうです。
でも現実には、われわれ家族が百歳の祖父を見送ったように平和におだやかに、というケースばかりでは決してないだろうとも思うのです。それは老老介護や単身高齢者世帯の増加、介護者の負担増とかそういう話だけじゃなくて。
人が最後、「どのように死ねるか」を決定するのは、その遥か以前、もっとずっと若い頃から、老いて「死」を迎えるまで、それまでの全ての「生」の性質そのものが問われることになるから、だと思っています。
祖父の最後があれほど平穏だったのは、それを可能にするくらいに当人の体が頑健であり(=どんな生活態度で、どんな栄養分を摂取して来たか?とも言える)、長寿の間に築いてきた家族や隣人など周囲との関係性があり、当人とその周囲との「死生観(および人生観)」が共有され得るだけの日常的なコミュニケーションがあり、医療機関以外での終末期看取りを支える介護や看護の「システム」が使用出来て、その上で介護者が倒れない程度の交代要員がいる中の家族の看取りの覚悟、そこまで揃ってはじめて出来たことではないかと。幸運だった、と言えるかもしれない。
そして後発のわれわれは、明治生まれの祖父以上に頑丈で健康な体を恐らくは望めないし、これから少子化でさらに経済的に貧しくなって行くかもしれないこの社会で、今回と同じことが自分達世代にも再現可能かどうかは正直わかりません。
同時に、こういう個人レベルの暗黙知によって制度利用のありかたが大きく左右される状況そのものに問題あるんじゃないか?という気もします。
どの地域、どこの家庭、どの人の場合でも、祖父くらい平穏に、自分の希望通りに逝けるのが普通になればいいのに、とも。
それでも、今回の遺族代表(仮)としての自分をおおいに助けてくれた様々な「システム」(というより、それを構成する一人一人のプロの集まり)には、いまだ不完全な部分は多いと言われながらも、大きな可能性は感じるのでした。
ああいう時にプロがいてくれるということは、それだけでとても大きな安心感であり、だからこそ、そういう技術と誇りを持って仕事をしてくれている人達を取り巻く環境が、少しでも改善されて、望ましい、力を発揮し易いものに変わって行って欲しいと強く願います。
今も日常的に聞こえて来る介護関係の低収入と人手不足の話、看護士の離職率の高さ、医療現場の過重労働、そして在宅での介護家族のギリギリの負担...そういうもので、どうにか成り立っているのがいまのこの国の姿なのでしょう。
さらに言えば、それすら文字通り「無縁」のまま独りで死んでいくことを何処かで覚悟している自分達のような世代もいて...。
今回のNHKの番組放送をきっかけに何かがすぐに変わるとも思えません。これまでもずっとそうでしたから。
でも、観た一人でも多くの人の心にずしっと残って、いつか世の中のありかたを少しずつ変えていくのではないかと思います。
自分もそんな手伝いを何処かで何かの形で、少しでも担えるようになりたいものだと改めて考えました。
様々に環境は違えども、この国で「自らの人生を幸せに生き終える」ことの出来る人が、少しでも、一人でも、増えることを願って。
NHKスペシャル「家で親を看取(みと)る その時あなたは」※番組公式サイト
誠ブログをご覧の皆様、ご無沙汰しております。(むしろ初めましてに近いかも?)
実はまったく個人的な事情でしばらくネットを留守にしていたため、ほとんど浦島太郎のような気分です。。
本題はブログのタイトル通りですが2013年4月21日放送のNHKスペシャルから。今回のも魂のこもった力作です。
大切な人の最後を看取る「選択」を強いられる家族の姿に寄りそい、そっと見つめるような番組の姿勢には深く心を打たれると同時に、相変わらず個人が全ての負担を背負わされている現状に対するやりきれなさも、ほろ苦い後味として残った回でした。
つい先日、自分も高齢の祖父を家族とともに病院ではなく家で見送ったばかりなので、他人事と思えない重さがありました。
そこで自分も、体験の共有という意味で少しでも書いておくべきだろうと急いでブログを開きました。(またパスワード忘れてた...)
自分はかつてこういう記事を書いたことがありまして、これは自分の祖母が痴呆をわずらって亡くなるまで間に、個人的に見たり考えたりしたことでした。もう十年単位で結構な以前の話になります。(ブログ自体は数年前に書いたのですが)
そして、今回のお話はその祖母の夫、最終的には百歳を超えていた自分の祖父がつい最近亡くなって、その体験になります。まだ日が浅いので、むしろ前回とは違って心情的な話にはならずに、介護や看取りの実際的な話を誰かのご参考になるように出来ればと思います。
百歳を超えた老人の最後、ということで介護や看護の経験ある人は皆さんさぞ「大変だったでしょう!」とお思いかもしれませんが、実のところ、うちの祖父はちょっとした"モンスター級"(※註:褒めています)というか、とにかくかなり"規格外"の高齢者でした。
なにしろ百歳を超えた時点でまだ要支援の2。車椅子どころか杖さえたまに忘れての完全な自立歩行が可能で、風呂もトイレも全部自分でする、おむつは嫌がってかなり最後の方まで普通の下着で通し、食事も三食われわれ他の家族と同じものを、ほとんど同じ量をぺろっと食べる...という具合で。勝手に自転車は乗るわ、元気な時はヒンズースクワットしてましたからね、百歳で。(そのせいか、焼いてお骨になったらほぼ完全形の頭頂部の厚みが常人の軽く二倍はあったそうで、施設の人がびっくりしていました)
デイサービスに通っていた施設では、祖父よりよほど若いのにずっと弱ってしまった他の高齢者の面倒を見ることさえあったそうです。頭もはっきりしすぎている程で、自分のお金の管理とか最後までしっかりやってました。
そういうハイパーな祖父だったので、本当に亡くなる数カ月前くらいまでは、我々家族の負担も驚くほど軽いものでした。なにしろ高齢者とはいえ「普通の人」のように扱えるのですから。(しっかりしすぎてウルサイな~(笑)とか思う事さえ多々あり)
そんな祖父も、ある時ちょっと泊りに出かけた先で体調を崩してからは、急速に弱り始めて布団に寝ている時間が日に日に長くなって行きました。さすがに本人の気持ちはともかく、他の臓器はじめ肉体の寿命が来たのか、と思いましたが、山奥育ちだったので心臓だけは頑丈そのもので、ここだけはあと何年と言わずいつまででも生き続けるのではないか?と思えました。(故人に「献体」の意志を確認しておかなかったのが本気で悔やまれます...きっと医学の進歩に貢献出来たでしょうに!)
祖父は元気な頃からつねづね「延命治療はしないで欲しい。病院や施設にも入らず、自宅で逝きたい」と望んでいました。
それを叶えるのは家族にとっては当然、大きな負担を伴うことは見えていましたが、それでも家族としては本人の意思を尊重してやるべきだという感覚で一致していました。それまでに祖母を始め何人かの親族の最後を見て来たので、ある種の「信念」みたいなものを共有出来ていたともいえます。
人は、なるべく「自然な死に方」が出来た方がいい。
という確信のようなものが。祖母は痴呆が重くなってからは意志の疎通もよく出来ずに病院で亡くなりましたし、遠方の祖父も意識はありながらほぼ同じように、またずっと以前には若くして癌で亡くなった叔父もいました。この叔父の場合は見上げるくらい体の大きな人で、食べることが本当に大好きだったにも関わらず、最後はチューブから栄養を補給されて苦しんだ末に亡くなりました。「どうせ助からないのなら、せめて好きなものを好きなだけ食べさせてやればよかった」というのが残された親族の後悔でした。
だから、祖父が自分で布団から動けなくなって意識も途切れがちになった時にも、われわれ家族は「胃ろう・気道切開・たん吸引などの機械的な延命装置は使用しないし、求めない」という意見でしっかり一致してました。(もちろんそれには本人の百歳超という高齢も大きかったですが。やることはやったし、さすがにもう若い人のようにはじたばたすることもないよね...という)
ようやく要介護度が上がった祖父の介護は母と、隣市に住むその姉、妹、そして自分(夜間担当)のチーム体制で臨みました。その他に症状に応じてこちらの要望が変わるのに迅速に(百歳超ですから急がないといけないので)対応してくれたフットワークの軽いケアマネージャーさん、適切な措置と落ちいた態度に安心させてもらった訪問看護士さん、長い付き合いのあったかかりつけの開業医の先生など、実質そう長くは無い期間でしたが色んな方面の協力を得ることが出来ました。家族が孤独や過労に陥らないという意味で、大変に有り難かったです。
最終的に、自分が祖父を看取ることになりました。
全くの偶然ですが、その時は珍しく自分が一人で午後中を見ていたのです。百歳を超えた明治生まれのハイパー老人である祖父の最後は、ごく静かなものでした。
亡くなる当日までどうにか経口で流動食ではあっても食事をとり、喉が渇いていたのか、自分が吸いのみで差し出した水をやけにごくごくとたくさん飲んでいました。飲み終ってから突然、きょとんと眼を開けて妙に明晰な目付きで周囲を見回したりしていました。話をしたとかでは無かったけど、あれはとても不思議な瞬間でした。
その日。それまで意識なく苦しそうに下顎呼吸(一般に末期状態に現れる、呼吸のたびに顎で喘ぐような瀕死状態の呼吸)していたのが、目の前で急に呼吸が弱まってヒュ~...と止まった時に、変な話ですが自分は妙に冷静に「あっ止まった」と思い、これはさすがに少し自分はパニックを起こしそうだ、などと考えました。そして、ここは救援を要請するべきだと真っ先に、親よりも叔母たちよりも先に、連絡先を教わっていた訪問看護ステーションの担当さんに電話を入れて事情を話し、来てくれるように頼みました。
「あの、呼吸止まってるみたいなんですが、これはどうすれば?」
「あ~はいはい。大丈夫ですよ~想定してたことですので。今から行きますので落ちついて下さいね」
「あっ、はい...」
電話を切ってから、とりあえずやることも無いので見よう見まねでぺこんぺこんと心臓マッサージなんかしていましたが、まさにその二日前に入れたばかりの床ずれ防止用のエアマットのせいでほとんど効いてなかったようです。それでも看護士さんは子供を優しく諭すような口調で慰めてくれましたが。
到着してすぐに、呼吸の完全に止まった患者の状況を確認し、看護士さんは「ああ、これはもう...頑張りましたね」と言ってくれました。
死亡診断書を書いてもらうためにあらかじめ看取りをお願いしてあった先生への電話(自宅での看取りの場合、死亡診断書を書いてもらわないと警察のお世話になることになってしまうので。)と、今後の相談のためにケアマネージャーさんへの連絡もやってくれました。
ただ、病院で亡くなるのと違って自宅で亡くなる場合、訪問看護の人達が遺体の「清拭(全身を拭いて綺麗にすること)」までやってしまうと介護報酬のほうの料金で割高になってしまうので、そこはこちらが手を出さずにこの先は葬儀のほうの会社のセット料金に含めてもらった方がいいんじゃないですか?などという余りにぶっちゃけた現実的なアドバイスもしてくれて、その場に一人しかいない遺族代表としては素直にそれに従うことにしておきました。(結局、これは後で祖父の娘達が最後のお別れにやりました)
驚くほどすぐに駆けつけてくれた開業医の先生(クリスチャンで教会の牧師でもある)と一緒にお祈りまでしてくれて、同じくすぐに来てくれたケアマネさんに引き継いでからプロらしく淡々と訪問看護の人達は戻って行かれました。
そこからはフットワークの軽いケアマネージャーさんが葬儀社関係の連絡(ギリギリで午後の業務時間内に間に合った)や、お寺関係、介護保険関係の事務の変更や、役所に提出する膨大な書類の準備に必要なもの、100キロを超す鉄の塊である介護ベッドの返却依頼などなど...こちらがボーッとしている前でテキパキと色々な事務連絡をやってくれました。やがて葬儀社の担当の人が来て、その人に引き継いでからケアマネさんも帰って行かれました。自分がやったことは返却予定の介護ベッドから故人を移すための布団を探したことくらいでしょうか?あとは、唯一居合せた遺族として何か決定することがある時に「はい」とか「じゃあそれで」とか言ったくらいで...。
そのうちに隣市から車で駆けつけた叔母達や母が出先から到着し、遺族代表(仮)としての自分の役目はひとまず終わりました。
ついでに言えば、葬儀関係の話になると途端にそれまで以上にリアルな「お金」とか「世間」の話になってくるので、喪主になる上の世代がいる以上は自分に何の決定権もない感じになるので。もっとも、今のところはまだ自分はあくまで補助的な役割ですが、予習はしておかないとな、とは思いましたが...。(できれば順番はずっと後であって欲しい、とは思います)
今回、たまたま祖父の看取りに一人で立ち会うことになった自分は「システム」に最大限、助けられたなぁと思いました。
こうなった時はこの人に連絡して、この人とこの人が対応して、ここまでやったらこの人に引き継いで、遺族が決める選択肢と範囲を提示してくれる。驚くほど全てがスムーズに進んだのは、自分達家族がそれまでの近親の死を通して色んなことを経験し、学んでいたから、それに基づいて最善のシステムを事前に準備出来ていたから、と考えることも可能かも知れませんが。人手も足りてましたし、何より患者本人が百歳を越えてると言うことで、その「死」を語ることに一切の「タブー感」が無かったのも大きい。
百歳を超えた祖父の「死」は、それ自体が一つの「自然現象」であり、人間が逆らうべくもないこと、いやむしろ今さら病院のベッドで人工的に長く苦しむことを思えば「天恵」とすら言ってもいいかも知れないようなもので...とにかく、それは悲壮感や無念さとは全く違っていました。
そこに至るまでに、祖父は会いたい人達に会い、のどを通る好きなものだけを食べ、一番日当たりのいい部屋のベッドで、家族や、可愛がっていた猫や、親戚が連れて来るひ孫たちの声を聞き、遠い昔の夢を繰り返し見ながら、眠る様なおだやかな表情で亡くなったのですから。
その日の為に、これまでの人生の全ての努力や営為はあったのだというように。
現在、国の方針が大きな転換を迎えており、出来るだけ終末期は在宅で、という方にこれからは向かうことになるそうです。
でも現実には、われわれ家族が百歳の祖父を見送ったように平和におだやかに、というケースばかりでは決してないだろうとも思うのです。それは老老介護や単身高齢者世帯の増加、介護者の負担増とかそういう話だけじゃなくて。
人が最後、「どのように死ねるか」を決定するのは、その遥か以前、もっとずっと若い頃から、老いて「死」を迎えるまで、それまでの全ての「生」の性質そのものが問われることになるから、だと思っています。
祖父の最後があれほど平穏だったのは、それを可能にするくらいに当人の体が頑健であり(=どんな生活態度で、どんな栄養分を摂取して来たか?とも言える)、長寿の間に築いてきた家族や隣人など周囲との関係性があり、当人とその周囲との「死生観(および人生観)」が共有され得るだけの日常的なコミュニケーションがあり、医療機関以外での終末期看取りを支える介護や看護の「システム」が使用出来て、その上で介護者が倒れない程度の交代要員がいる中の家族の看取りの覚悟、そこまで揃ってはじめて出来たことではないかと。幸運だった、と言えるかもしれない。
そして後発のわれわれは、明治生まれの祖父以上に頑丈で健康な体を恐らくは望めないし、これから少子化でさらに経済的に貧しくなって行くかもしれないこの社会で、今回と同じことが自分達世代にも再現可能かどうかは正直わかりません。
同時に、こういう個人レベルの暗黙知によって制度利用のありかたが大きく左右される状況そのものに問題あるんじゃないか?という気もします。
どの地域、どこの家庭、どの人の場合でも、祖父くらい平穏に、自分の希望通りに逝けるのが普通になればいいのに、とも。
それでも、今回の遺族代表(仮)としての自分をおおいに助けてくれた様々な「システム」(というより、それを構成する一人一人のプロの集まり)には、いまだ不完全な部分は多いと言われながらも、大きな可能性は感じるのでした。
ああいう時にプロがいてくれるということは、それだけでとても大きな安心感であり、だからこそ、そういう技術と誇りを持って仕事をしてくれている人達を取り巻く環境が、少しでも改善されて、望ましい、力を発揮し易いものに変わって行って欲しいと強く願います。
今も日常的に聞こえて来る介護関係の低収入と人手不足の話、看護士の離職率の高さ、医療現場の過重労働、そして在宅での介護家族のギリギリの負担...そういうもので、どうにか成り立っているのがいまのこの国の姿なのでしょう。
さらに言えば、それすら文字通り「無縁」のまま独りで死んでいくことを何処かで覚悟している自分達のような世代もいて...。
今回のNHKの番組放送をきっかけに何かがすぐに変わるとも思えません。これまでもずっとそうでしたから。
でも、観た一人でも多くの人の心にずしっと残って、いつか世の中のありかたを少しずつ変えていくのではないかと思います。
自分もそんな手伝いを何処かで何かの形で、少しでも担えるようになりたいものだと改めて考えました。
様々に環境は違えども、この国で「自らの人生を幸せに生き終える」ことの出来る人が、少しでも、一人でも、増えることを願って。
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