責任感がないというのは、忠誠心が欠けているからなのかも知れない。
当社は12月決算で1月期初ですので既に昨年度の業績評価は終わっていますが、世の中ではまだまだたくさん3月決算の会社も多いので、今年度末の業績評価や来年度予算策定に奔走されている方々も多いのではないでしょうか。
だからなのか、評価に関する会話に最近でも結構巻き込まれてしまうことが多く、それで、最近気になっているのが表題の理論。
そもそも忠誠とか献身とか言い過ぎると、なんか軍隊みたいで批判されてしまいそうですが(苦笑)、もともと軍国主義に染められ育てられてきた私にとっては、これらの言葉に何にもアレルギーがないので、非常に気軽に、ついつい使っております。(笑)
一方で、忠誠や献身という言葉、とっても大事だとも思うんです。
自己犠牲的な考え方を決して美化し過ぎてはならないとは思いますが、いろんな理由や背景があって、どうしても忠誠心を持てない、献身的になれない、という事象が多々起きていると思います。
そしてそれが、どうも「責任感がない」という表現で評価されることが多くなったように感じています。
しかし、私が個人的に思うに、事は単純に、被評価者が一方的に忠誠心がない、だから責任感がない、という話ではなくて、むしろ、「どうしてその人が忠誠心が欠けてるとか、責任感がない、と見られてしまうのか」について、そもそもその人が忠誠心を見せるべき相手側にも問題があって、忠誠とか献身なんて表現したくないという反応をせざるを得ない状況だったりはしないかと、むしろ被評価者を擁護したくなるようなときも少なくないと思うのです。
最初から忠誠を求めないなら別にいいのですが。。。
求めるならば、相手が忠誠を表現したくなるような人間たれ、と言いたくもなります。
自分にそう表現してくれない人に対して、「責任感が足りないよね」という言い方をするとき、
そもそも適切な責任をちゃんと与えているのか、
責任を果たす活動に対する適性な評価規準を設け、当人に理解させているか、
責任を果たそうとすることに対して、適当なサポートと、労いを行っているか、
与えることなしに忠誠や献身を強いていないか、
そういうことを自身ふりかえったのち、適切な指導を行わなければなりません。
私、個人的には、忠誠とか献身という姿勢が大好きです。
だから常にそれを表現したくなる相手が存在してほしいと思っています。
自分がリーダーとして立ち振る舞うときは逆に少しでも周囲からそう思ってもらえるように自分を研鑽し続けなければならないと思っています。
だから自分が表現したい相手に対しても、自分からみて「ふさわしい」能力者でいつもいてもらえるよう、その人が道を外れたようならそれを正し元に戻すための協力、支援も惜しまず、忠誠や献身を精一杯表現し、相手を全力で支えるべきです。そうでなければ人間誰でもたまにはいろいろ踏み外すこともありましょうし、両者の関係が長持ちするわけがありません。
「責任感がないなあ」と誰かを評価するとき、その人が責任感を持てない理由が考察できなければ、そして改善策が思い浮かべられなければと思います。それなしに見限ってしまっては、もうその被評価者は忠誠を表現する相手を見失っているのですから、自然治癒など起こりえるわけもないでしょう。
「責任感が足りない」と感じる部下を持つ方は、その部下をきちんと躾しなおすと同時に、自身の襟も自ら見直し、適切に正し、これから自分がどう立ち振る舞えばその部下が「充分な責任感を持って」期待パフォーマンスを発揮してくれるようになるだろうかと、繰り返し思考することが大事だと思います。
そこまでやってなお、それでも部下がパフォーマーにならないときこそが、いよいよ当人の問題なのです。