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「教育」に関心のない人はほとんどいません。一方、いま「教育」において、どんなことが起きていて、どんな方向に向かっているか、メディアを通しての情報だけでは捉えることも難しいです。このブログでは、教育の今をなるべく分かりやすくお届けするとともに、一教育産業人として考えてることもお届けできれば、と思います。

社会に問題解決行動をあふれさせるには。

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普段から仲良くしている小学校の教師が、ネット上の投稿で次のようなことを書かれていました。
本人の許可を得て引用しご紹介します。

===(引用開始)===
子どもが下校途中で石投げをしていて、車にぶつけてしまったい、それに激怒した運転手が、「先生を呼んでこい!」脅されて、泣きながら子どもが職員室にやってきた。

僕のクラスなので、当然僕が行くことになったのだけど、この場面で先生は全く関係ない。
だから当然、「先生を呼んでこい」なんて馬鹿なこと言う人間に、腹が煮えくり返りながら、現場へ。

そのやってくる態度が気に入らないとさらに激怒。
「普通なら駆けつけてすみませんというのが教師やろ」と関西弁で捲し立ててくるんだけど、
「なんで?ここは学校じゃなので学校は関係ありません。状況を確認に来ただけです。」
「なんだその態度は!校長を呼べ!」
「呼んでもいいけど警察の立ち会いのもとに話します。」
この押し問答で10分。

子どもたちも泣くじゃくっているので、仕方なく校長を呼びました。(実はその騒ぎをみていた他の学年の子どもが、○○先生がとんでもないことになっていると職員室に駆け込んだらしいのだけど 笑)

「このアホ教師の教育がなってない。どうなってんだ」
「勉強ばかりやって何にも世の中のこと分かっておらんらん」

ここで「ああこの人はこの一言を言いたかったのね」と理解しました。
荒れた家庭の保護者から必ずといっていいほど、出てくる言葉です。
こういう人の求めているのは、自分よりも学歴が高い人間に謝罪させることで自分を納得させることなんです。

結局は校長の謝罪で丸く収まったのだけど、僕はこうした人に謝らなければならないいまの学校、そして社会がとてつもなく情けないと感じます。
僕は教師とは簡単に謝罪するべきじゃないと思います。
石を投げられて車が傷ついたことは、その子どもの責任なのでその子どもを叱るべきです。
(また車の傷を許容出来ない場合は、弁償してもらうことになります。)
===(引用終了)===

子どもの不始末の責を学校や教師に一方的に押し付ける。
そんな雰囲気が、僕が小さい頃より広がっているような気がしてなりません。

学校内で起こった事故については、責は学校に帰すべきですが、学校外の子どもの言動まで、学校が、そして教師が全て責を負う、なんてことは、決してないですよね?
もちろん、学校や教師自身が、トラブルを引き起こした学校外の子どもの言動を「責任感」をもって受け止める姿勢が好ましいとは思いますが、学校や教師以外の他者が、その責任感に狙いを定め、責任を押し付けるのは、これまたもちろん、好ましくありません。


このときの運転手の、正しい立ち居振る舞いは、次のようなものでしょう。
これも、本投稿をした教師が紹介してくれました。

===(引用開始)===
ほとんどの学校でPTAが子どもの損害賠償保険に入っているので、それを使ってもらえるように「相談」しにくるのが筋ですね。
子どもが否定する、ふざけた態度を取っている場合には警察を連絡をいれて現場検証をしてもらうのがよいです。

世の中でPTAの損害賠償保険の存在が知られていないことが怒りを大きくしている原因かも知れません。
保護者に直接請求するのはとても面倒ですのでね。
保護者も忘れている人が多いのですが、PTA総会で必ずその話がでるはずなので、覚えてくとよいです。
===(引用終了)===

この運転手の他責なところは、次の3点にあります。

1つめ。
子どもに責任を感じてもらうことを促す自分自身の責任を、他者に転嫁したこと。
本来は、子ども(あるいはその保護者)とコミュニケーションするのは、本人の役割です。
その責任を、学校あるいは教師という他者に押し付けていますよね。
もちろん、子どもや保護者と直接コミュニケーションするのは難しい時代になっていますので、賠償などを求めたい場合は、本教師の仰るように、学校に「相談」するのが筋ですよね。

2つめ。
子ども自身の責任を学校や教師に求めたこと。
本来は、自らができないことを肩代わりしてやってくれる、「学校」や「教師」という存在は、感謝こそすれ文句を言う対象では決してないんです。
いつの時代からかわかりませんが、子どもの不始末は学校の責、と、脊髄反射で思ってしまう方が増えてきている気がします。

3つめ。
自らの努力不足によって優位に立てていない部分を、被害者の立場に立てる事象を利用して、加害者(あるいは、加害者の責を負うものと自分で決めつけた立場の人)より優位に立とうとしたこと。
この教師の「荒れた家庭の保護者から必ずといっていいほど、出てくる言葉です。」というのは、教師の経験に基づく発言に過ぎませんが、僕はこの教師の言動の信ぴょう性をよく存じ上げていますので、恐らく真実なんだろうと思っています。
そして、真実だとするならば、自分が優位に立てる魔法の立場である「被害者」ということを利用して、自らの様々な努力不足をすべて本体験に被せてきているんだと思います(もちろん、そのことに本人は無自覚です)。


常々思っています。
人より優位に立つには、自らが成長することで相手以上の立場をつかむのが健全だと。
相手を貶めたり、一部の「できないこと」を声高にバカにしたりすることで、自分は変わらないのに相手を弱くすることで自分が優位に立つのは、極めて不健全なあり方だと。

そして、不健全な人間が蔓延した社会は、間違いなく不健全な社会です。

 

これからの社会で、今まで以上に求められるのは、主体的に学び、動き、そして問題解決を図ろうとする人間像です。

他責型人間は、問題の責任を他者に押し付けるため、この人間像とは真逆であることは明らかです。
そして、他責型人間に触れる機会が多い子どもは、残念ながら他責傾向に育ってしまいます。

これから到来する社会では、これまで以上に、問題解決型人間が必要だと思われるのに...。


この教師はこうも続けます。

===(引用開始)===
場合によっては謝罪することで学校側の責任まで要求されることもあります。
「あやまったんだからおもえらにも責任があるんだろ」と。

「川の堤防のかさ上げ工事した土手で遊んでいて迷惑だ、崩れ防止のネットもはがれた。学校は何やっているんだ! こっちにこい」と電話で生徒指導の僕と教頭が夜に呼び出し。

なぜ、子どもを直接叱らないのか聞いたら、
「そんなことをしたら不審者だと警察に言われてしまうんだよ!」

「情報をいただいて指導はするけど、子どもを育てるのは地域の役割ですからね。」とお返して上げました。
===(引用終了)===

他責型人間を、次世代には決して引き継がないでおきましょうね。
分別のある大人が手をつないで...。

※本ブログはZ会ブログ「和顔愛語 先意承問」2014年4月3日の内容を一部修正し掲載しています。

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