「和顔愛語 先意承問」で幸せに生きる。
とある方が、自分の力の無さを感じ落ち込んでいたので、その方向けにこんなメッセージを送りました。
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Webの世界では著名な、河野武さんって方がいます。
http://smashmedia.jp/
彼の座右の銘が、「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」です。この言葉、読めば読むほど好きになっていく言葉で、人間ってこれができれば十分過ぎるほど十分じゃないかな、と思っているんです。
自分のため、自分の好きな人のために全力を。これって、その人から見て「関係性」や「(好き、という)感情」が強い人を大事にするって言葉なのかな、と。そして決して、それまで関係のある人のみを大事にする、という、いわゆる「内輪受け」を意味する言葉でもありません。
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このメッセージに、ありがたいことに、その方がとても共感を覚えてくださったようです。
ただ、このメッセージに至るまで、彼といろいろやり取りした複線もあり、経緯を知らないと唐突感のあるメッセージかもしれません。
そこで、ついで、というのもなんですが...
僕がこの言葉を好いている理由を記事にしてみました。
その方だけではなく、読者の皆さんに参考になるところがありましたら...という気持ちから。
注)河野さん自身が解釈されている上記言葉の解釈とは異なるかもしれません。あくまで、僕の解釈です。
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人は何のために、何を目標として、あるいは、なぜ生きるのか、と問われたら、答えは決まっています。
「幸せ」のため、ですよね。
僕の考え方・思想性、および行動の起点は、すべてここです。
誰の助けも不要、一人で、あるいは家族だけで、衣食住を含めた生活基盤まで全部まかなえる...
極端に言えば、服や靴も自分で作れて、食材も自給自足して、自給自足のための土地も自分だけで持っていて、公共財の利用を一切断って、市民権を得ないで...その状態で「幸せ」であれば、別に構わないと思います。
しかし、貨幣が流通する社会を待たずとも、原始から、物々交換による人との関わり~つまり「社会」は生まれているわけですから、現実的には、社会との関わりなくして人は幸せになれない、と言い切ることができます。
社会と関わる以上、社会を動かす対象物...具体的には「人」になるわけですが、他者である「人」に対して満足を与え、その代わりに自分が満足を得る、これが幸せを得るための基本であると考えます。
もちろん、人に満足を与えずに、人から満足をもらえる状態を作れば、それも「別に構わない」となるわけですが、そんな状態が許されるのは、現実的には「子ども」~しかも、「子ども」は今後、社会を動かす動力になるという共通認識がある社会下において~だけかと思います。
ドラッカーも語ってます。「まともな社会なくして、まともな個人はありえない」と。
自分の存在理由、自己実現、云々、個に落とし込んだ「自分の豊かさ」を考える側面のように見える思考においても、結局、社会の存在を切り離すことはできない、ということを端的に語った言葉だと思います。
...となると、人は何を目標にして生きるか、の答えは、"「幸せ」のため。ただし、社会の存在という制約条件下において。"というのが、僕が現時点で得ている、最も近い解になります。
そして、社会の存在をそれほどケアしなくても「幸せ」をつかめる状態を作ったのであれば、それはそれで構わないのですが、一部の超スーパーな人間(例としてわかりやすいのは、イチローのような人)以外の、我々のような一般人、凡人は、社会という制約条件を負荷に感じない、つまりは、「社会と共に歩んでいる」感を自分の中で形成しない限り、「幸せ」は得られないと思います。
換言すれば、社会の中で受け入れられる自分を作らなければいけません。
じゃ、自らの幸せを鑑みつつ、他者にどうすれば受け入れられるか、となると、「他者の幸せ」と「自分の幸せ」をすりあわせていくことが必要になります。
他者(Aさん)の中で「自分が存在することで他者(Aさん)が幸せになる」という心を醸成しないといけないわけです。
これが、他者視点の心理で見たときの「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」という言葉であり、その気持ちの中に入っていかないと(=関係性を構築しないと)、めぐりめぐって、自分の幸せ、あるいは、それを具体に落とし込んだ「達成したいと思う事柄」を達成できませんよ、という、僕なりの解釈です。
自分視点で見たときも、結局は「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」のが、幸せになるメンタリティだと思います。
語りだすとこれ以上に長くなるので省略しますが、全くそれまで関係のない人に対して支援する行為(寄付行為から、道端のお年寄りに手を差し伸べる行為すべて)も、自らのちょっとした幸福感を得るためという感情まで全て含めて「自分のため」というものに含まれると捉えると、究極的には「自分の幸せ」のために行っている、という結論に行きつき、むしろ、現象として「多くの支援をしている」と思われている人ほど、「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」というメンタリティを強烈にもって行為を行っているのではないかな、と思います。
ちょろっとだけ脱線的に、かつ、ちょっと言葉は悪くなりますが、何か甚大な災害が起きたときにのみ支援行為を起こそうとする人と、普段から「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」を考え方として、態として持っている人が、社会の中でどちらが社会の中で幸福感を増すベクトルに動かしているか、というと、後者だと思うんです。(生きるのは)"「幸せ」のため。ただし、社会の存在という制約条件下において。"ということを強烈に捉えていますから。
#もちろん、甚大災害のときに支援する行為を否定するものでもございません。
閑話休題。これが"彼の座右の銘が、「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」です。この言葉、読めば読むほど好きになっていく言葉で、人間ってこれができれば十分過ぎるほど十分じゃないかな"と語った理由になります。
小学生くらいの子どもに態を植えつけたいのであれば、言葉として、「父ちゃん母ちゃん、友達を幸せにできるような人間になれば、それだけで自分も幸せになるから、そのためにがんばんな」で十分だと思うんです。途上国の人に思いを馳せよう、その人たちに支援を、という言葉を小学生くらいの歳で投げかけるより、よっぽど。
じゃ、がんばる、って、具体的には何をすれば、ぼくと、ぼくの好きな人に満足感を与えられるか?という答えが、僕の座右の銘である「和顔愛語 先意承問」という言葉につまっています。
自分が幸せになるために、社会から支援を受けたときは、無表情無関心、あるいは怒っていても、当然ですが、他者の幸せに寄り添うことはできませんよね。だから「ありがとう」という。優しい心をもち、優しい態度で接する、それが「和顔愛語」という言葉で表される態であり、教育視点では「情」の教育にあたることだと捉えています。
また、心だけでは人は助けられません。人を助ける技量を身につけなければいけません。それが「先意承問」~相手(「先」方)の「意」思を「承」って「問」いかけを発せられる~という言葉で表される態であり、教育視点では「知」の教育にあたることだと捉えています。
発展した現代においては、問題解決も複雑に絡み合うことが増えているため、昔以上に「知」が必要です。
Z会に勤務している自分の存在理由でもありますが、本当の意味での「学力」を自分の中で形成しないと、自らの幸せはつかめないと強烈に思っています。だって他者を支援できませんから。
安彦忠彦先生も仰っていますが、公教育の存在も、「学力形成」が主であるべきなのです(Z会は、学校という場だけではどうしても身につけられない高度なレベルでの問題解決力を育成するための存在というのが僕の解釈です)。
そしてもちろん、「情」も必要です。アタリマエですが、自分に情がないと、他者からの情を引き出せませんから。
そして公教育は、学校でしか身につかない「人格形成」を副の目的としてあるもの。
一方で副の目的に過ぎず、人格形成は、家庭教育、そして地域教育。三位一体が必要条件であり、現代ではそれに加え、「地域」という場の存在が、地域を飛び出した「場」や、インターネットでつながることまで含めた、広義の「場」の中での教育が、人格形成において大切だと思っています。
一番の教育問題を語るとしたならば、家庭教育と地域教育が機能していない現象が増え、結果として学校教育に必要以上の人格教育を求める現象を誘発し、結果として三位一体で形成される人格よりも低レベルの人格しか形成されない上に、学力形成(not 「受験に合格するための」学力形成)が御座なりになっている点です。
蛇足ですが、Z会で働く僕の顔は、上記のとおり、公教育ではどうしてもできない学力形成に寄与することに邁進する顔であり、これはこれで社会の一部分を創っている行為と思っています。
一方で、教育人としての僕の顔は、家庭教育と地域教育が機能していない現象を直視し、「ぼくとぼくの好きな人のために」機能不全の解消に邁進するという時間の使い方をしています。
妻の協力もあり、今のところ「ぼくとぼくの好きな人」に大きな教育問題は発生していませんが、今後、PTAなどを初めとした「公教育と家庭教育の接続点」がおかしなことになりそうだったら、間違いなく割って入ります。
個人的な活動として、自治体を通じて行う教育も芽も出てきました。
こうして24時間、「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる 」ことを単純にやっているだけなのです。
"「幸せ」のため。ただし、社会の存在という制約条件下において。"
※本ブログはZ会ブログ「和顔愛語 先意承問」2012年7月31日の内容を一部修正し掲載しています。