報酬は「コスト」か、「未来への投資」か----ベンチマーク企業の選び方が映す、人的資本経営の現在地
報酬制度の議論には、決まって登場する問いがあります。「自社の給与水準は、他社と比べて高いのか、低いのか」。
一見シンプルなこの問いには、見落とされがちな前提があります。「他社」とは、いったいどの会社を指すのか、という問いです。比較対象の選び方ひとつで、答えはまったく変わってしまう。そして実は、この「誰と比べるか」という設計思想にこそ、その企業が報酬をどう捉えているかが表れます。
最近、その点で示唆に富む事例を目にしました。本稿では一つの企業事例を起点に、報酬戦略と経営戦略の連動という、人的資本経営の中核的なテーマを整理してみたいと思います。
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■ ある事例:「時価総額」でベンチマーク企業を選ぶ
ReFaやSIXPADで知られるMTGが、報酬制度の再構築にあたって採った手法が、HRプロの対談記事で紹介されていました。
同社は報酬データのベンチマークにあたり、比較対象となる企業群(ピアグループ)を独自の切り口で設計しています。ひとつは「採用競合」。職種別に、採用市場で実際に取り合う企業を選ぶ。これはオーソドックスな発想です。
もうひとつが特徴的でした。「時価総額」を軸にした比較対象の設定です。
MTGは従業員持株会など株式関連施策が充実しており、多くの社員が自社株を保有している。つまり時価総額が上がれば、社員の資産も増える。だからこそ「いま近い企業」だけでなく、「将来目指す時価総額の企業」を比較対象に据える----という考え方です。
現在地と、1ステージ上がった先の到達点。その両方をファクトとして可視化し、「報酬の未来をストーリーとして語れる状態」をつくる。これが同社の狙いでした。
参考:HRプロ「『ReFa』や『SIXPAD』など世界的ブランドを手掛けるMTGが描く『自社の報酬の未来』」
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■ なぜ「報酬と経営戦略の連動」がいま問われるのか
この事例が興味深いのは、報酬を「現在のコスト」ではなく「目指す企業像への投資」として捉え直している点です。そしてこれは、いま政策レベルでも強く求められている方向性と一致しています。
2026年3月、内閣官房・金融庁・経済産業省は「人的資本可視化指針」を改訂しました。日本経済新聞によれば、この改訂は、女性管理職比率などの指標のみを重視する姿勢からの転換を意図したもので、2026年3月期から経営戦略と連動した人的資本の開示が全上場企業の義務となるのを受けたものです。
つまり、「数字を並べる開示」から「戦略と紐づけて語る開示」へ。報酬や給与水準も、その文脈のなかで「なぜこの水準なのか」「経営戦略とどう結びつくのか」を説明することが求められ始めています。
改訂指針の付録として公表された開示事例集では、たとえばカプコンが、開発体制の拡充という経営目標と連動させる形で、給与水準の引き上げや業績連動賞与・従業員向け株式報酬制度の導入を位置づけている例が紹介されています。報酬を事業戦略の一部として説明する----これがいま、好事例とされる方向性です。
参考:人的資本可視化指針(改訂版)/経営戦略と人材戦略の連動及びそれを踏まえた指標の開示事例(内閣官房・金融庁・経済産業省、2026年3月)
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■ そもそも「経営戦略と人材戦略の連動」とは何か
このテーマの原点は、2020年に経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」にあります。そこで示された3P・5Fモデルの第一の要素が、まさに「経営戦略と人材戦略の連動」でした。
日本総研の解説によれば、この「連動」というキーワードは一見目新しくないように映ります。人事制度の設計、人件費の総額管理、昇格・採用計画などは、もともと経営の意思決定事項であり、経営と人事の連携は日常的に行われているからです。
しかし、ここで問われている「連動」は、そうした日常的な連携とは次元が異なります。経営戦略を起点に「どんな人材ポートフォリオが必要か」を逆算し、その実現手段として採用・育成・配置・報酬を一貫して設計する。報酬制度もまた、独立した制度ではなく、経営戦略を実現するための一手段として位置づけられる----という発想の転換です。
MTGの「時価総額起点のベンチマーク」は、この転換を報酬領域で具体化した一例と言えます。「いまのコストを他社並みに抑える」のではなく、「目指す企業像にふさわしい報酬水準を、逆算して設計する」。報酬の議論の出発点を、現在ではなく未来に置いているわけです。
参考:日本総研「人的資本経営概論〜経営戦略と人材戦略の連動〜」
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■ 報酬データ提供側の視点:マーサーの知見から
報酬を経営戦略とアラインさせるという発想は、報酬市場データを長年扱ってきた側からも、近年いっそう強く打ち出されています。
マーサーは「データに基づいた透明性の高い意思決定が、人事に求められる時代」だとし、報酬を制度の問題ではなく人材競争力・人事戦略の問題として位置づけています。同社の「総報酬(Total Remuneration)」という考え方自体が、給与単体ではなく、賞与・手当・福利厚生まで含めた報酬全体のパッケージで競争力を捉えるもので、報酬を断片ではなく総体として戦略的に設計するという思想が根底にあります。
注目したいのは、報酬データの使い道が「他社並みかどうかの確認」から、「どのポジションに、どのスキルに投資すべきか」という戦略的判断へと移っている点です。賃上げが一時的な対応ではなく構造的な変化となり、報酬の基準が「職種」から「スキル」へと移行しつつあるなか、報酬テーブルが未来の事業戦略と一致しているか----という問いが重みを増しています。MTGの「目指す時価総額から逆算する」という発想も、まさにこの「報酬を未来の事業に一致させる」という問題意識の一つの現れと見ることができます。
参考:マーサージャパン「日本総報酬サーベイ(Total Remuneration Survey)2025年版」
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■ フラットに見たときの論点と注意点
一方で、こうしたアプローチには冷静に見るべき点もあります。
第一に、「目指す時価総額」を基準にした報酬設計は、成長期にある企業や株式報酬の比重が大きい企業では機能しやすい反面、業態や成長フェーズによっては必ずしも当てはまりません。自社の事業特性に照らして、どの軸でベンチマークを組むかは個別に検討すべきものです。
第二に、報酬水準の引き上げは原資を伴います。将来像を語ることと、現実の人件費をどう配分するかは別の問題であり、両者をつなぐ財務的な裏付けと納得性のある説明が欠かせません。
第三に、開示の文脈では「戦略と連動させて語る」ことが目的化し、ストーリーが先行して実態が伴わない、という本末転倒も起こり得ます。PwC Japanなどの開示分析でも繰り返し指摘されているのは、横並びの形式的な開示ではなく、自社にとっての重要性を見極めた独自性のある開示の重要性です。
報酬を経営戦略とアラインさせるという方向性そのものは、政策的にも実務的にも揺るがないトレンドです。ただし、それを「語り方」の問題に矮小化せず、実際の制度設計と原資配分にまで落とし込めるかどうか----そこに各社の力量が表れます。
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■ おわりに:報酬は「管理業務」から「経営機能」へ
報酬制度は長らく、人事部門の管理業務という位置づけにありました。市場水準に合わせ、社内の公平性を保ち、法令を遵守する。それ自体は重要な機能です。
しかしいま起きているのは、報酬を「経営機能」として捉え直す動きです。経営と人事が同じファクトの上で「目指す企業像にふさわしい報酬とは何か」を議論する。報酬を、企業の未来を語る言語のひとつにする。
MTGの事例も、政府の指針改訂も、根底にあるのは同じ問いだと思います。報酬を「いくら払っているか」というコストの問いから、「どんな会社になりたいか」という戦略の問いへ。その転換が、これからの人的資本経営の質を分けていくのではないでしょうか。