「女」を「男」に読み換えてみると…。~『「育休世代」のジレンマ』を読んで~
30年近く前のこと。強烈に覚えている「先輩の憤慨!」がある。
私は一浪後に大学出て社会人になったため、2年目の先輩は全員同い年だった。その2年目の女性たちが上司との定期的な面談を終えて席に戻ってきた時、よくこう叫んでいたのだ。
「上司は、”結婚しても続けますか?”って毎回訊くけど、●●君や××君(2年目の男性)にも同じ質問をしているのかしらっ!? プンプン!」
・・・
なるほどー。
この時、まだまだ”うぶ”だった私は、こういう女性の憤慨に「ほぉー、そこ、怒るところなのかー」、そうぼんやりと思った。
外資系だったし、私は「均等法元年」の新卒入社だったこともあり、取り立てて男女の「差別」を感じたことはないが、「過剰な配慮」はもしかするとあったかもしれない。
「女性なんだから、そんな仕事しなくていいよ」
という方面。
「女性だから、お茶入れてよ」
はなくても、
「女性だから、早く帰んなよ」
といった”過剰な配慮”。
その程度のことはあった、かもしれない。(それが”よろしくない”ということを学ぶには数年を要した、私は)
さて、冒頭の「●●君にも同じ質問をしているのかしら?」という問いだが、「●●君」が上司との面談の際、上司から「”結婚しても続けますか?”と尋ねられているか?」ということで、まあ、そりゃないだろうな、と誰もが思う・・はず。つまり、「女」には訊かれてもたいていの場合、「男」は訊かれない質問。
この出来事以来、私は、「女」を「男」に読み換えてみるという癖がついて、「成り立つ?」とよく考えるようになった。
ちょっと前に以下のような話を聴いた。
子どもが生まれたので、妻に「あなたも育休を取って」と言われた男性が上司(男性)に「育休を3か月ほど取りたいのですが」と相談したところ(制度上は整備されている)、上司からは「君がすべきことはお金を稼ぐことだろう。二人揃って休んでしまったら、収入が途絶えるぞ。男なのだから、一家を支える気概がないと。あまり認めたくないなあ」と言われた。
・・・
この話は、「権利である”育休”を認めない上司」とか「ジェンダーハラスメント」だとか「パワハラ」とか「コンプライアンス違反」とかいろんな解釈ができるものではあると思うのだけれど、そこの注目したいのではない。「女」と「男」に、あるいは、「男」を「女」に読み換えてみるとどうなるだろう?という”題材”として面白いな、と思ったのだ。
子どもが生まれたので、夫に「あなたも育休を取って」と言われた女性が上司に「制度を使って育休を3か月ほど取りたいのですが」と相談したところ、上司からは「君がすべきことはお金を稼ぐことだろう。二人揃って休んでしまったら、収入が途絶えるぞ。女なのだから、一家を支える気概がないと。あまり認めたくないなあ」と言われた。
・・・
男女平等、ジェンダーに縛られない社会。
だったら、この話は、成立してもいい・・・のではないか。
・・・と言うのは簡単だけれど、こうやって置き換えてみると、女の私でも何か小さな(いや、大きな)違和感を覚える。つまり、私自身がすでにジェンダーの縛りに影響を受けてしまっていることに気づかされる。
それと、
・男のすることは、稼いで一家を支えることで育休をとることじゃないだろう
・・・というのは、男性にとっても「ジェンダー縛り」になる、ダメな発言だし、そして、それがまた男性を苦しめる原因にもなっているのだろうが(「いるのだろうが」としか言えないのは、私は、女性なので、男性がわの気持ちは実感としてはわからないから)、それでも、「男」「女」を逆転させてみた文章よりは、なんとなく成り立つ気がしてしまう・・・。その「してしまう」が問題なのだ。
・・・・
「平等」「対等」というのは実はとても難しいことなんだと思う。
高齢化社会、人口減。いろいろあって、「女性も活躍してもらわないと!」と国を挙げて大キャンペーンをしている最中だけど、「働け!」「産め!」「育てろ!」「管理職になれ!」と言われても、そんな全部をするのって無理でんがな、と思ってしまう女性も多いことだろう。
何かで読んだのだが、
「女性の社会進出というのであれば、同時に男性の”家庭進出”を考えて行ってほしい!」(←たぶん、大勢がこの表現を使っていると思う。度々目にするので)
という表現。うん、なるほど!と思うし、女性女性、と女性ばかりフォーカスされても、「やってらんねーよ」とぶつくさ言いたくもなる。
さて、
中野円佳 著 『「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか?』 (光文社新書)
を読んだ。
この本には、「働く女性15人が出産を経てどうなったか」を質的調査によって明らかにしている。
出産前は、男性と互角に働いていた人が、「継続」「退職」「そのうち退職しそう」と道が分かれていく過程を分析している。
「男並みにばりばりやるぞー」と思っている人ほど、「男並みを要求される職場」や「そういうパートナー」を選んで、結局、出産すると、「それがかなわない状況」に陥り、もんもんとして転職するとか、仕事をいったんやめてしまうというケースも出てくる。
出産して育児してという時に、「妊娠前はバリバリだったのに、出産したら、”母性に目覚めちゃった”のね、やっぱり、女なのね」とか「やる気がなくなったね」とかいろいろ「女性がわの問題」とされがちなことが、実は、制度とか環境とかいろんな仕組み(システム)とか、構造的な問題が背景にあるということは見落とされているというのだ。
がむしゃらに頑張っている時に、「こんなにしてまで働く意味はなんだ。子どももいるのに」と自問自答してしまう女性の声がたくさん出てくる。「こんなにしてまで」・・。わかる。
「女捨ててまで頑張る」というのが「美談」なのだろうか。
「子育ても家事も”女性”マター」なのだろうか。
「子どもを育てようと思ったら、じじばばに頼らないと成立しない。じじばばに頼ってこそ、ばりばり働ける」というようなやり方でほんとにいいのだろうか。
・・・
反対側にいる、
「深夜まで働き、子育てに参加できない男性」ってのは、それでいいのだろうか。
という”男性”側のことにも想いを馳せてしまう。
・・・
女性はやる気をなくしているわけでも、母性に目覚めているわけでもなく、徐々にいろんなことにがんじがらめになりながら、職場をあとにしてしまうこともあるのだ。
私もかつて「女性」であることによる「しばり」に苦しみ、家族を解散してしまったことがある。一人のほうがまし!と思った日からもう20年も経つ。
今年読んだ本の中で、最もインパクトがあったのがこの本だった。
女性も男性も年齢問わず、読んでみてほしい。