母の日
母の日です。
昨日、近所の花屋さんの前を通りかかったら、一面にカーネーション。 今は様々なカーネーションがあるので、美しいですねぇ。
父の日より母の日のほうがクローズアップされている感があるのは、やはり、母の存在のほうがなんとなく大きく感じられるからなのでしょうか。(世のお父さんも頑張っているのだけれど・・・)
ところで、私は小学生の頃、お母さんがいない子供に対して、先生が「あなたは白いカーネーションよ」といったようなことを教えていたのが、とても不可解で仕方ありませんでした。
不可解というか、もうちょっとはっきり言うと「余計なお世話じゃ」と思っていたのでした。
小学生の頃から反骨心に満ち満ちていた私は、大人が子どもに「あなたは白いカーネーション」とわざわざ教え、指示することが気に入らなかったのです。 私には母はいましたが(今でも元気です)、もし自分に母親がいなかったとして、先生(という他人)から「赤ではなくて、白にするのよ」と”規定”される意味が分からないなあ、と幼心に思ったものです。「私がその立場だったら、赤でもピンクでも自分が好きな、もしくは、お母さんが好きな色のカーネーションにするわい!」と心で反論していたのを覚えています。(←武闘派小学生だったので)
いえ、「白いカーネーション」に、それなりの歴史とか意味とか背景とかあるんでしょう。だから白いカーネーションを否定するわけではありません。
ただ、何と言うのだろう?
他人にあれこれ言われたくない、自分の家族の問題をどうこう介入されたくない、と思ったのだろうと想像します。(ホント、生意気な小学生です)
そういえば、前職は、社内で年賀状をやり取りすることが多く、その内、社員名簿というのが出回るようになり、部門内の「住所録」が11月くらいになると配布されていました。
ある年から、その「住所録」の端に「○」がついている欄ができ、これが「喪中の方」のしるしだったんですね。
この時も心の中で「余計なお世話じゃ」と思ってました。
喪に服するかどうか、ということとと、どのくらい喪に服するか、さらに言えば、年賀状を出すかどうか、は、家族の問題であって、他人が「この人は喪中なんで、年賀状出すことないのよ」と知らせることもあるまいと。しかも、そのマークが「○」一つであらわされていることに少々違和感を覚えたのです。家族の誰かを喪失しているのに、「○」を一つつけるだけですか?という違和感です。
この時も私は「○」がつくような状況ではなかったので、面と向かって誰かに異議を唱えることはありませんでしたが、ずっとこれが「なんだかなあ」という思い出?として残っています。
実際、それから数年後、私たちが共に暮らした祖母が亡くなった際、田中家両親も私も、「喪中葉書」は出しませんでした。年賀状はたくさん届きましたが、それは、贈る方には関係ないことなので、ありがたく頂戴し、拝見しました。一方で、「おめでとう」というのは何だなあ、と思った両親や私は、「寒中見舞い」として、毎年と同じ数だけの葉書を出したのでした。
・・・・。
家族の問題は、家族のものであって、他者がどうこう言うことではないんだよなぁ・・・・・。と、カーネーションをきっかけに思い出した出来事をつらつらと綴ってみました。
ところで、昨日読んでいた本に、こんな一文が。
「あと何回、お母さんが作るご飯を食べられるだろう?」 (ちょっと涙出ますね、これ)
・・・ 母の日。妹の提案で、フラワーバスケットをすでに贈ってありますが、やはり、声を聴かせるのが一番だと思うので、電話してみることにします。
【この本、文句なしに泣けます。いい本です。】