真顔に戻った瞬間の、ちょっとした寂しさ。
何かの会合の帰り道のこと。会合で出会った女性と帰り道が一緒になり、同じ地下鉄に隣り合って座っていくこととなった。
会合の最中はちょっとしか会話できなかったので、その10分で、どんなお仕事をなさっているのか、とか、今日の会合にどんな感想を持ったか、など、それなりに濃い会話ができた。
「またどこかでお会いしましょうね」といいつつ(ま、これは互いに社交辞令だけれど)、先に地下鉄を降りることになる私は、ドアからホームに降り、彼女を見送ろうと、車内を振り返った。
まだドアも開いたままの車内で、彼女は、すでに携帯電話を取り出し、画面を真顔で見つめていた。ほんの少し前まで、笑顔で言葉を交わしていた相手は、すーっとその表情を消し、私が振り返っていることにも気づかず、ただただ携帯の画面に見入っていたのだった。
その日が初対面で、二度と逢わないかも知れない相手ではある。が、その時、ふぅーっと寂しいキモチにはなった。
相手にはすでに別の時間が流れているのだな、と思ったからなのかも知れない。
この出来事から、そういえば、普段、電車を先に降りる時、相手が先に降りてしまう時、どんな風に自分は振る舞っているか、考えてみた。
自分が先に降りる時は、この例のように、電車を振り返り、動き始めるまでホームに佇んでいることが多い。姿を見送り、時に小さく手を振り(相手が誰であろうと)、見えなくなったら、おもむろに歩き始める。
相手が先に降りる場合も同様に、ホームに降り立った相手の姿が見えなくなるまで(たとえば、エスカレーターに乗ったなーなどと)車内から目で追い、無事、見送ってから、ようやく自分の世界に戻って、本を取り出したりする。
振り返った時、車内に残った相手が真顔に戻って携帯を見つめていた光景は、心に長く残った。(だってもう1年以上も前のことだもの)
携帯(など)を取り出すタイミングは難しい。だから私は、互いの姿が見えなくなるまでは、と自制する。振り返った時の寂しさをふと想像するからだ。
もちろん、これは相手にそうしてほしい、と言っているわけではなく、自分はそう考え、気を付けている、という話である。