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長いIT産業の経験の甲斐も無く、成長の無いIT音痴の思いこみと勘違いのなんでもコラム

先週、意義のあるIT歴史の何頁かを創ったプロ広報マンが逝った(・_・、)

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先週、若くてデキる仲間が世を去った。彼は、誠実で、多くの人から好かれ、頼られ、真っ直ぐで、輪郭の明瞭な存在だった。死は何れ、全ての人に、満遍なく訪れる「人生最後のイベント」ではあるが、やはり残念で且つ早過ぎた。この日の流された多くの涙がそれを示していた。

7年以上の付き合いになる彼と初めて出会ったのは、登場前のWindows98が話題に上り、各メーカーからは多くの対応ハードが発表を控えていた頃だった。「エンドユーザ・コンピューティング」という、余り実のない語彙が、ハードやソフト、少なくともその総量において、その後、数年間続く歴史的なITピーク期を迎えようとしている時代だった。そんな戦場に、彼は某大手PR会社より出向して来たプロの広報仕事人だった。

当時の筆者は、その後、中国系企業となった某社のモバイルPCを中心とした製品戦略と商品企画の一部を担当していた。彼と、そして、既に某ネットワーク機器会社に移籍したが、同じ商品企画を担当していたNさんと3人で、新商品の発表の裏で、本来の商品発表会とは異なる怪しいプロモーション企画案等を考え、盛り上がっていた。今となってはそれらの多くが実は効果的で、且つ楽しい思い出となっている。

当時、某社に在籍していた数多いPCオタク社員の間で人気のあった名器の一つに、蓋を開閉すると、連動してキーボードが拡張収縮する怪しげなモバイルPCがあった。中でも一番楽しかったのは、別の企画スタッフが作ったその「縮小復刻プラモデル版記念品」を、我々3人がマジに発表会をして、お披露目しようとしたことだ。マシンのモデルナンバーや「モスキート」と言う開発コードまでをねつ造し、パーソナル深夜残業をも厭わず熱中した。

歴史的原器は、蝶が羽を展開するイメージから「バタフライ」というニックネームが付けられていた。JKさんが、子供が積み木を元の箱に収納する様子を見ていて、突然思いついた歴史的な超名作だ。JKさんは、来日すると、筆者と秋葉原やヨドバシに行き、小さなケータイやデジカメに子供の様に眼を輝かせる元プリンターのメカエンジニアだった。非常に残念だが、昨今は、メーカを問わず、嵐の様な感動を呼ぶ商品が皆無だ。さて話を戻そう、、

既に閉店したWiFiが体験出来る秋葉原のビル地下にあるカレー屋さんで、2002年秋、会社未公認の裏発表会が行われた。彼は、メディアリリースの作成やメディアへの案内が主たる業務だった。筆者とNさんも、本業と同じ、新商品の企画概要と戦略、そして商品のプレゼンとデモだった。プレゼンとは聞こえは良いが、「ボケとぼけ」のただの掛け合い漫才だ。結局、総勢40名近いメディア関係者とスタッフで一杯になった奇怪な発表会は2時間近くで幕を下ろした。前代未聞の参加費2000円を支払ってカレーを食べながらの記者発表会に参加していただいた遊び心溢れる日本のメディア関係者には今も感謝している。

その中心の一人だった彼が突然いなくなってしまった。昨年晩夏に突然入院をし、1年余りの闘病生活で、多くの人を残して帰らぬ人となった。お馬鹿イベントだけでは無く、多くの真面目な製品発表をいつも一緒にやって来ただけに残念でならない。人は逝っても、WEB上に残した多くの足跡はこの先何年も残る。お通夜の席では、多くの見慣れたメディア関係の方々をお見かけしたが、一同に信じられないというお顔であった。多くの人からメールや、そして、珍しく生電話を何本も頂いた。

生前の彼を思い出して、そして、お通夜に集まった多くの人の顔を思いだすと、広報という職種とは関係なく、大事なことは、極めてありきたりだが、誰にでも、誠実で、そして相手の身になって考える、ということの重要性が自然と理解出来て来る。筆者など、今も反省することが二桁は思い当たる。今は、意義のあるIT歴史の何頁かを創ったプロ広報マンのご冥福を祈りたい。

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