「一人称で物事を言い切る」ことを避けていませんか?
おはようございます。
さわやかな青空が気持ちいいです。
===ほぼ毎朝エッセー===
□□文章に書くことは現実化しやすい?
言霊(ことだま)という言葉があります。
口に出してしまったことが現実化するという、ちょっとオカルトチックな意味合いもあります。自分は言霊についてはあまり信じていませんが、物事を徹底的に考えて、それが現実化するというプロセスは信じています。
徹底的に考えるときに、頭の中でやっていてはダメです。頭の中で考えている限りは、あまり進みません。ぐるぐると回っているだけのことの方が多いです。お酒が入るとなお悪いです。同じことでくだを巻くだけ(笑)。
そこで、罠にはまらないためにも、「明文化」あるいは「図化」をします。実際に何かに書き出すと、自分の理解も進むし、人に理解してもらうのも早いです。
理解が進み、問題点などが周りとシェアできると、その解決策は実際に進みやすくなるので、物事が現実化しやすくなるわけです。効率も高いです。別に言霊のようなオカルト要素ではなく、シンプルに現実的にメリットが出るものです。
さてそこで、特に明文化するときに、やってしまいやすい間違いがあります。申し訳ないけど、例として昨日のアルバイト学生さんの日報から引用してみましょう。
以下引用==>
学生最後の夏休みだと思うと、逆に「無駄にできない」と気が張ってしまっています。有意義に過ごせるようにしたいと思います。
<==以上引用終わり
「明文化」、いいですね。
さりげなく、「有意義に過ごしたい!」という心がけを表現していることにも、とても好感が持てます。普通に読めば「頑張って!」ということになるでしょう。
ところが、これが文字通りに現実化できたと仮定しましょう。すると何が現実化されるでしょうか?
「有意義に過ごせるようにしたいと思う自分」が現実化できます。つまり、自分自身は決して有意義に過ごしていないということになってしまいます。悲しいですよね。そしてもったいないです。
そこで「有意義に過ごします!」と言い切れいいわけです。驚くほどすっきりします。それが現実化できれば、きっとそれは本当に「有意義な夏休み」になります。細かいことですが、ここから分かるのは、これは表現の習慣であって、「一人称で物事を言い切る」ことを避けていてはいけないということです。
明文化するときに、はっきりと決めたくない潜在意識も邪魔して、「したい」「思います」「べきです」など、主語がだれか分からない、かつ、曖昧な表現は、是非とも避ける習慣にするといいです。
そして実際にこの「一人称で物事を言い切る」ことをやってみると分かると思いますが、自分で主体的に言い切るのには、結構細かいことでも勇気がいるものです。でも、そのちょっとした勇気の分だけ、一歩前に進む自分と巡り合うことができるものです。
お試しあれ!