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パーソナリティ・スタイルは、育った地域と時代の影響を受けるのか?

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私は現在、愛媛県松山市に住んでいる。四国の山奥の清流のもとでISDN頼りに開発をしていたが、列車が1時間に1本しかなく積雪で断絶されるのは困るから空港のある街に出てきてもらえないか、と、取引先に請われて、10年ほど前に引っ越してきた。

愛媛県は行政区とは別に、東予、中予、南予と、大きく3つの地域に分かれている。その由来は知らないが、いろいろな地域の人たちと交流してみると、地域によって言動に特徴というか、傾向があるような気がする。

松山市は中予にあり、いわゆる商業と観光の町である。良い意味でお節介焼きで親切な人が多い、コミュニケーション能力の高い人が目につく、という印象を持っている。
だからなのか、旅行者も、そう感じているのだろう。しばしば、街角で、店内で、気軽に声をかけられる。私は松山の地元民ではないから、いくぶんあやしいのだが、戸惑いつつも、道案内をしたりする。

東予の人には論理的合理的な印象を受ける。
学術的な調査をすれば違うかもしれないし、私の知人友人の数が限られているので、ことさらそうだというつもりはないが)私個人は、そういう印象を受けている。

だからなのか、東予在住の知人たちや、東予出身の著名な人々を想像すると、「男だから」とか「女だから...」といった性差にとらわれていない人たちばかり思い浮かぶのである。
東予地域に一定期間以上住むと、そういった、職業に個体差しか意識しない考え方になってしまうのだろうか、と思わずにはいられないほどに、だ。

IT業界の者にとって、東予出身の偉人といえば、浮川和宣氏である。(一度XMLのイベントでちらとお会いしたことがあるだけにもかかわらず勝手なことを書いてしまうが)、我々が、浮川初子氏の高度な技術力の恩恵を受けることができたのは、伴侶の和宣氏が東予出身者だったことも大きいのではないだろうか。(私は今は窓族につきWordを使っているけれど、リーマン時代は長らく一太郎を使っていた!一太郎がなければ原稿は書けなかった!)

一太郎が世に出た当時の社会というのは、女性は、高卒か女子短大卒で専業主婦がデフォだった。四年制大学へ進学するにしても、今のように交通網が発達していなかったので(膨大な旅費と時間がかかる)、ずば抜けて優秀であっても、女子なら都会には出さず地元の大学を受験させるというのが、地方の教師や親たちの常識だった。そして、専門知識を身につけて大企業に就職しても、バッチリ化粧して華としてお茶くみ数年間男性のアシスタントを務めて寿退社、というのが暗黙の了解で、同じ仕事に就いても男性とは昇進と給与に大きな格差があった。
優れた女性の能力を世に知らしめるべく支援する男性が、日本に存在するなど、まず考えられなかった時代である。
おそらく、一部の地域の出身者を除いては。

では、南予の人はどうかといえば、とにかく、話も行動もスケールが大きい(良くいえばおおらか、悪くいえばおおらかすぎ)、話の内容が、何かにつけ、最上級になりがちな印象がある(もちろん、すべての人の、すべての言動がそうだというわけではない)。

南予の方言に「がいな」という言葉がある。
豪雨だと「がいな雨」、デスマーチは「がいな仕事」、すばらしすぎるアプリは「がいなアプリ」。
単独でもしばしば用いられ、おいしすぎる焼肉は、一口食べると「がいなー!」。

「がいな」とは、どうやら「ヨタ」とか「ゼタ」とかいう意味らしい。南予の人の言動は、「ギガ」「テラ」をはるかにしのぐのである。
なにしろ、フットボールが、Jリーグ発足時点どころか、万延元年、というタイトルの小説があるくらいだ。これがギガすごいを超えることでなくて、何であろうか。(大江健三郎氏は、南予地方出身)。

そして、南予の、ある年代以上の男性は、何割かの日本人がなんとなく感じてしまいがちな、お金にまつわる話に後ろめたさを感じていない、という印象がある。
私の狭い経験の範囲でいえば、普段着の文章や、会話の中に、「お金に関する単語の出現率が高い」のである。
これも、(学術的な調査をすれば違うかもしれないし、私の知人友人の数が限られているので、ことさらそうだというつもりはないが)私個人は、そういった印象を持っている。

私は、社会に関わる義務と貢献する義務に最大限の努力をしているけれど、根は俗世のことに興味が持てないタイプなので、ものすごく重い腰を必死で上げなければ銀行に行けない人間だが、さいきんは円だけで持っていてもダメなようなので、必死で近所の銀行の敷居を跨ぎ、底の時に外貨にした(あーしんど)。先日また重い腰を上げて出金したら、Suraface Pro と Type Cover 代になったわけだが(しらっと宣伝)、私がその差益を得られたのは、数十年前、取引先の人たちが、私を大和証券に引っ張っていき、差益というものがあることを教えてくれていたからである。
当時、その人たちと話していると、仕事以外の日常会話でも、「お金に関する単語の出現率が高かった」。
そして、その人たちは、南予の出身だった。

かくいう私の相方も、南予の人である。
相方は「がいな、やつ」である。且つ、Facebookや日常会話の中には、お金に関する単語の出現率が高い。
共同生活を始めた当初、相方が同じ南予の友人と話しているのを傍で聞いたときには、驚いた。
数十万円のPCを、「1万円くらいにまからんかなし(値下げしてもらえないだろうか)」「がいなこと言うのう、5万円でええがな」「そりゃない、1000円にまからんかなし」「そらいくらなんでも無理ですらい」「わはははは」「わはははは」

いやもう、びっくりたまげたのなんの、がいなお金の話しよったんですらい。

困るのは、南予以外の地域の人たち、たとえば東京の取引先の人たちにも、同じ調子で話してしまうことである。
1ページ千円万円単位の仕事を、「ああ、一千万円くらいですかなし」とか、相方は何気なく言っているのだが、取引先担当者は口ポカンである。で、相方(Kuniyasu Yakushiji)はスジガネ入りのKYなので(イニシャルがKYなので当然だが)、担当者のドンビキ視線に気付かず話し続け、私をハラハラさせる。
初めて南予の人と話した他地域の人たちは、必ず驚くに違いない。
そういった会話に慣れたはずの私でも、今なお真に受けてしまい、驚くことがある。

地域性、場所に限定される言動の傾向、というものがあるような気がする。

そして、世代、時代に限定される言動の傾向、も、あるような気がする。

60歳以上の、いわゆる団塊の世代には、その世代の特徴があるように見えるもちろん、そうではない人もいるけれど)。
(学術的な調査をすれば違うかもしれないし、私の知人友人の数が限られているので、ことさらそうだというつもりはないが)私個人は、そういった印象を受けている。
人間味がある、エネルギッシュである、それも、既存の枠を超えるほどに、そして、自らの個性や能力のアピールに長けている、戦中世代の倫理観を踏襲していない(戦中親を持ち、その倫理観を踏襲している私は疑問に思うところがある)、という印象を持っている。

で、どうして、こんなネタを書いたかということなのだが。

Facebookの友人が、青色LEDの中村教授のインタビュー記事をシェアしていた。
そのタイトルが、もろお金、だったからである。うわお、直球。>>くだんの記事(日経ビジネス)

中村教授は、愛媛―徳島、が生んだ偉人である(そういえば浮川夫妻も、愛媛―徳島、ですね)。

科学技術の詳細な部分を理解しづらい専門外の人々が、過去の報道だけを見ると、中村教授は巨額なお金の話を熱く語る人に見えて、ひいちゃうことがあるような気がする。

だけど、リアルケンミンで、南予の相方に接している私から見れば、「お金の話じゃがなし」なことって、南予の年配男性が言うなら、驚くことじゃなし、それは「お金のことを言いたいわけではなく」、「お金の背後にあることを言いたい」のだろうと受け止める。
以前、同氏の著書「Wild Dream」は買って読んだ。開発経緯への関心もさることながら、偉人にこんなことを言っては失礼なのだけれど、南予地方の空気が感じられて、地元出身のオリンピック選手を眺めるような目で読んでしまった。

昔、XMLのイベントで講演した時、東京では真面目に技術解説をし、大阪会場でも同じように話そうとしたら、控室に主催者がやってきて「薬師寺さん、これまで真面目な話ばかりで、観客が退屈してきてるんですよ、ここはひとつ、ウケ狙いでお願いします」と言う。
こちらは大阪民でもなく、お笑い芸人でもないので、面食らったが、私ツッコミ相方ボケで、うどんネタで盛り上げて方言で落とし、なんとか笑いをとった。同じ素人漫才を東京でしたなら、冷たい空気が流れるだろう。
そのとき、地域性というものの大きさを感じた。

第二次産業の東予、第三次産業の中予、第一次産業の南予。
産業構造の違いによって、もとめられる職種に偏りがうまれ、それぞれの職種に適したパーソナリティ・スタイルの人が多く居住するようになり、その子供たちは、親のパーソナリティスタイルを遺伝的に受け継ぎ、さらに親や地域の大人たちの言動という環境要因にあって、人生や社会に対する考え方の傾向が生まれ、地域性と世代の特性を形作るようになるのだろうか。

それとも、その場所、その時代に、なにか、我々の感知しえない要因があるのだろうか。

ステレオタイプ、とか、世代論、というのは、好きじゃない。
自分自身、四国に住むこの年代の女性、というデフォからは、大きく外れているわけで。(うどん好きだけはデフォ)
だけど、

どのような人も、パーソナリティ・スタイルの一部分は、空間と、時間に、規定されているような気がする。

そして、異なる地域、異なる世代の人たちから見れば、誤った解釈をされがちな言動、というのもあるような気がする。

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