世界を初めて見る子供のように ~過去の随筆 (2003年3月5日) の再掲載~
仕事場のすぐ隣は駐車場である。といっても、アスファルトではなく、黒土だ。駐車場とブロック塀で仕切られた向こう側は、兼業農家の菜園。収穫時期を過ぎたキャベツが、野菜の王者のように背伸びしている。十数本のレモンの木には、もう何カ月も前から静かな実がぶら下がっている。小鳥がついばみにやってくる。名前は知らない。頭と腹が山吹色のふくふくと丸い小鳥だ。もうずいぶん熟したレモンは甘いのかもしれない。
番の鳩が塀にとまり、互いに毛づくろいをしている。子すずめが隣家の屋根の上を駆け回る。駐車場の隅に水仙が咲いた。何も世話をしていないのに、十数本咲いた。あとしばらくすれば、土筆が顔を出し、おはじきのような野いちごが駐車場の一角を埋めつくす。ときに、ネジバナが咲く。
元来、執筆や制作の仕事自体は苦にならないので、徹夜で眠気をもよおすことはあっても、作業自体でストレスがたまるということはない。だが、日常生活は仕事だけで成り立っているわけではない。生きていくことを辛いとは思わないが、面倒だなあ、うっとうしいなあと思うことはある。
そんなとき、わたしは、唯一の贅沢である、ドリップで一杯だけ淹れた珈琲を飲みながら、雀たちの様子を見る。小鳥の様子を見たり、一緒に遊ぶのは大好きだ。屋根の向こうに目をやると、障害物がないから空がスッキリと見える。雲の流れるさまに、時間がとまる。ときに、イベントを取材する新聞社やTV局のヘリやセスナが低空飛行していく。
昨年の冬、近所の神社で、どんぐりを拾った。一昨年、散歩途中にどんぐりを見つけ、翌日拾いに行ったら、掃除の後だったようで、1個も残っていなかった。今年こそは拾いたかった。相方が15mmくらいの大きいものを見つけた。帽子のついたものも1個拾った。20個ほど拾うことができた。
わたしは、いつまでも子供でありたいと思っている。横山大観の「無我」が理想である。Childish(幼稚な、子供じみた)ではなくChildlike(=inoccent、子供のように無邪気な)であることだ。決して、Childishでありたいとは思わない。しかしながら、この世界は、その逆を尊ぶ。Childlikeは忘れ去られ、Childishは似非ヒューマニズムの言葉の砦の中で許される。
スピードと刺激と短期間で絶え間なく入れ替わる流行は、社会という満員電車に乗るよう背中を強く押す。人は、停車駅のない電車から降りることもできず、innocentを失っていく。CMのコマ数は増え、キャスターは早送りのように話す。
世代を重ねるごとにヒトの脳の処理速度は向上するのかもしれない。だが、処理されるプログラムコードは省略されているような気がする。Sub Page_OnLoad()...End Subだけで、条件分岐も判断もエラー処理も何も記述されていない。刹那的である。
The World is full of wonder.
世界を初めて見る子供のように、現象に対峙すれば、より強い刺激を求めなくとも、現象はいつも新鮮で、色褪せることはないはずなのに。