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コミュニケーションにおける共有知識モデルについて、デザインの観点から考えていきます

会社ふるさと論

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わたしの生まれ育ちは、東京:三鷹。ここが、いわゆるわたしの人生の「ふるさと」です。
とはいえ仕事や身体の好不調に関わらず、
日常生活を過ごしている時に、この場所を思い出すことはありません。

気持ちのバランスが極度に崩れた時や、さらに深まり噪や欝に襲われた時、
心の奥深くにしまい込んでいた「ふるさと」を想い起こすように思います。

ワインのテースティングでは、次々に各種のワインを味わいますが、
常々、自分の味覚を取り戻すために、脇の下など自分の「におい」をかぐそうです。

きっと、「ふるさと」を想い起こすのは、
社会の潮流に流され見失った自分を、取り戻すための働きなのでしょうね。
生まれ育った頃の自分の「におい」を想い、精神を初期状態に戻す。
それはDNAに刻まれていることなのかもしれません。

いつしか、
生まれ故郷が人生としての「ふるさと」ならば、会社は社会人としての「ふるさと」だ。
と思うようになりました。

会社を新しく創る、ということは、新しい文化を持つ「ふるさと」を創るということ。
組織や体制はそのような企業文化を基盤とした、企業の価値を産み出しますね。

『ふるさとは遠きにありて思うもの』

現在、勤めている会社においては、なぜか「ふるさと」という意識はわかないものです。
会社を離れてみて、始めて「ふるさと」を感ずるのだと思います。スポーツに於ける、
自分のホームコース、ホームゲレンデ、ホームグラウンドetc・・・も同じことがいえます。
自分の育ててくれた環境を思い、こころにしまい込んでおくことは、とても大切です。

「ふるさと」を愛する人であれば、誰しも自分のふるさとの疲弊や消滅を望むものはいないでしょう。
それは、自己のこれまでの足跡、つまりは人生の一部を消去してしまうからです。
かかわりをもった人たちは、自分の誇りとしての「ふるさと」を語れるよう、
「利他」のこころをもって、会社を成長させるべく、頑張らなければなりません。

過去の会社を、自分の「ふるさと」として、どのように認識できるかによって、
自らの生き方が変わってくるのではないでしょうか。

清兵衛

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