「啐啄」の真意がわかった
「啐啄」(そったく)という言葉とその意味を、知人のTさんより聞きました。
過去に耳にした言葉でしたが、その意味するところをよくわかっていませんでした。
辞書には、
〔「そつ」は「啐(さい)」の慣用音。雛(ひな)がかえろうとするとき、
雛が内からつつくのを「啐」、母鳥が外からつつくのを「啄」という〕
と書かれています。テレビなどで、時々、雛が生まれる場面を見ることがありますが、
わたしは、雛は自分で殻を突き破ってでてくるもの、だとばかり思っていました。
しかし、実際には、雛は準備ができたことを内側から知らせ、それを聞いた親鳥が
絶妙のタイミングで外から殻を叩き割る、ということを表現した言葉ということですね。
また、以下のようにも書かれています。
禅において、師家と修行者との呼吸がぴったり合うこと。
機が熟して弟子が悟りを開こうとしているときにいう。
弟子が悟りを開こうとして師匠に問いただしたその時、師匠が答えを出し
(つまり殻を割って)、弟子をその上位に引き上げる、ということのようです。
「孵化」とは、文字通り卵を雛に孵すことであることから、そこには時間の流れがあります。
しかし、「啐啄(そったく)」は、「孵化」に該当する「インキュベーション」という言葉とは、
意味合いが少し違うようです。「啐啄同機」という言葉もあるように、卵の殻を割る/
割られる瞬間の物語であり、時の流れよりも一瞬のタイミングのことを言っているンですね。
親鳥は、卵が順調に孵化すべく環境を整備し、中の雛を育成する。
卵の中から「外にでるぞ!」という 意思表示があると、先生たる親鳥は、
最後に殻を割りそれを手助けする。手伝ってもらっていることを知らない雛鳥は、
勝手に自分で殻を割ってでてくる、と思っていることでしょう。
Tさんは、飲みながら、快調に話します。
「あるテーマを持って本屋の棚を見ていくと、関連したタイトルが本の方から飛込んでくる、
という経験はないだろうか。それは、自分が『勉強したい』と思うと、その師が現れることと
共通している。自らが奮い起たなければ、結局はなにも起こらないということだ。」
初心者の時に読んだ入門書を、中級者になって再度読み直すと、全く別なことが書いてある、
という経験があります。上級者になった頃に読み返すと、さらに違うものがみえてくることでしょう。
そもそも「啐啄」という言葉を聞いたことがあるにもかかわらず、記憶に留まることがなかった。
今になって初めて聞いたように思えること自体、当時における、己のレベルの低さを感じますね。
そのようなことを話しつつ、思わず二人して、顔を見合わせ、言いました。
「人間にたとえてみると、陣痛が赤ん坊の『外に出たい』という合図。
これを親が感じとり『イキム』ことにより、新たな命が誕生する。そういうことなんだ。」と。
自然の摂理とは、なんとすばらしいものなのでしょうか。
夜空を見上げると、多くの星たちがいます。「見たい」と思うと、その星座が浮かび上がります。
次回はどこかで、夜空の星たち:「星座(Consteration)」の話をとりあげたいと思います。