「短所」を伸ばそう!
過去においては「短所を見つけてこれを直せ」のような、没個性化教育が
主流の時代がありました。これはまさに人材の標準化といえますが、
一方では標準的人材になることの安心感もあったことから、
大量消費時代の特徴を物語っているように思います。
その後、脱「没個性化」の時代になり、多少の短所に
は目をつぶり、長所を伸ばすことが重要だ、
という風潮が現れてきました。
しかし、短所をみつけだす訓練ばかりしてきたことから、
自分の悪いところや嫌いなところは分かっても、
いいところはなかなか見つからないものです。
また主観的に見過ぎるとどうしても「偏り」がでてきてしまう。
とはいえ、「偏り」が個性そのものですので、
「偏る」こと自体はたいした問題ではありません。
(象限Ⅱ:他人の知らない自分の個性)
思い違いというのもあります。たとえば、自分がいいと思って選んだ服と、
他人がいいと思って選んでくれた服とが極端に違う、
といったことをわたしは時々経験します。(象限ⅡとⅢの対立)。
自分では気がつかない「自分の長所」をどのように探せばいいのか。
ある意味で、それはとても悩ましいことですね。
田坂広志は、自身のメッセージメールである『風の便り-もう一人の自分-』*1の中で、
以下のように述べています。
もし、理想を求めて歩みたいのであれば、
自分の中の現実主義者の部分を見つめる。
もし、他者を愛して生きたいのであれば、
自分の心の奥深くに潜む憎悪を見つめる。
そのとき、我々は、
自分の中のもう一人の自分に気がつき、
その自分との対話を始めることができるのでしょう。
自分の「長所」がわからないときのヒントがこの言葉の中にあります。
それは、自分の「短所」を見つけ出し、これを追求していく、ということ。
わたし自身、このブログで描いている「一覧」をテーマとした図の作成は、
特に不得手なことではありません。
過去より、仕事の中でいかされ、スムースな意思疎通に役立ってきました。
複雑に混みあった事象や関係性を紐解き、テーマを絞ったコンテンツとして凝縮、
さらに俯瞰する作業は、これからの情報過多の時代には、欠かせない業務になってくるでしょう。
このことが得意になった要因はよく分かりませんが、先天的なものではなく、
どうやら「忘れる」という短所があったからだ、と考えるようになりました。
記憶容量の少なさは、勉強するうえで大きな障害です。
短所を伸ばすことは、長所発見の手助けになります。
短所を伸ばすことにより、わたしの場合、「すばやく思い出す」という「技」が
必然的に身についてきました。
「博士の愛した数式」*2という本がありますが、後天的な「記憶」の障害を持つ
主人公の博士の記憶は80分しか持たない、という設定となっています。
博士にしてみれば、これは大きな短所です。
しかし、「世界は驚きと喜びに満ちていると、博士はたった一つの数式で示した」との
評価のとおり、博士はよりシンプルで美しい「数式」にこだわることにより、
短所を排除したのではないかと思えます。
時計という装置を外す(時の基準を失う)と、時の感覚は鋭くなることと同様に、
短所を受け入れることにより、その対極にある長所が際立ってくるということですね。
前述の田坂広志は、『風の便り-「長所」の定義-』*3の中で以下のように述べています。
「微生物の性質」を見るとき、我々は、
人間にとって有益なものを
「発酵」と呼び、
人間にとって有害なものを
「腐敗」と呼びます。
同様に、
「人間の性質」を見るとき、我々は、
自分にとって有益なものを
「長所」と呼び
自分にとって有害なものを
「短所」と呼んでいるだけなのかもしれません。
「短所」とは、見方を変えれば、実は、自分にとって有益なものなのです。
*1: 「風の便り」第118便 -もう一人の自分- <田坂広志>2004年
*2: 「博士の愛した数式」小川洋子(新潮出版)2003年
*3: 「風の便り」第98便 -「長所」の定義- <田坂広志>2003年
追記:ここで、作成したマトリックス(自分/他人:知っている/知らない)に関する記述が、「永井孝尚さんのブログに書かれています。本ブログによれば、「ブロガーのばんちょ~さんのご指摘によると、これは「ジョハリの窓」と言うそうです。詳しくはこちら。」とのコメントがありました。己が「無知」なることを実感いたします。