被災地の今と明日(陸前高田市)
陸前高田市に行ってきました。
被災地には何度も行っていますが、海沿いの高台から市街地に入る坂を初めて下りる瞬間は緊張します。
たぶん心が流されないように身構えるんだと思います。
壊滅状態とよく報道されていますが、どの被災地にもわずかな希望みたいな場所はあります。
しかし、この市の場合はまさしく何も無くなっていました。
津波は、海岸線から最長で8kmの地点まで遡り、平地に見える場所をすべて押し流しました。
被害の範囲は居住地面積の7割以上、市人口の7%の方が亡くなったか、行方不明になっています。
高台の墓地から見た市街地は、まるで埋め立てた直後の造成地のように真平らで何もなく、海までそのまま見渡せる状態になっています。
2万人が生活していた市街地だったところを通っても人の気配は何もなく、静けさの中を時折ガレキ除去の重機の音が響くだけです。
他の被災地と比べてはいけないのかもしれませんが、被災地それぞれに状況が違い、復興の方法も違います。
そのあたりを情報発信してゆくことも被災地支援にはなると思いますので、やや比較になってしまう点はご容赦ください。
仙台やいわき、釜石などの市も大きな被害を受けていますが、被災地から後ろを振り返ればまだまだ住宅地が広がっています。
被災者のみなさんは後ろの都市部で復興を行ってゆくのだろうなと思えます。
しかし、この街に関しては後ろがありません。
産業を持ち、自力で経済を回していた都市が、丸ごと津波に飲み込まれたという部分が想像できるだけに復興とか言うことすら軽々しく言えないようなそんな気持ちになりました。
市のNPOの方や弊社のお客様にお話を伺ったのですが、復興までの道のりが東京で考えるよりずっと困難でずっと時間がかかることがよくわかりました。
まず、住む場所がありません。
仮設住宅はできたものの、市内の4割以上の小中学校の校庭を間借りしている状態。その小中学校も避難されている児童などでパンク寸前。学校全体で隣町へ集団仮移転する高校もあります。
その仮設住宅の入居率は98%。しかも4人までは2DK、それ以上は3DKしかスペースがなく、きびしい住環境にあります。
仮設住宅の期限は2年間ですが、2年後にそこを出られる可能性が無いことも次第に分かってきました。
市の復興は、防潮堤の建設、高台移転、市内の一部嵩上げの3つの方法を併用して行われるという計画が現在固まりつつありますが、防潮堤(防災というより減災という規模です)の建設も数年、嵩上げにしても盛土に数年、さらにその土が固まるまでにあと数年、つまり仮設住宅を出て人が本格的に住める状態になるまでに最低でも5年以上はかかることは間違いありません。
しかも、市の経済を担っていたのは水産関連業で、その割合は経済規模の8割に上っていたそうで、それが跡形もなく流されています。
企業も土地も満足な住居もないという状態が今の陸前高田市の現状です。
2年で出られるなら2DKでもガマンできるかもしれませんが、4人家族で2DKの仮設に5年はいくらなんでも無理です。
ですから陸前高田市の復興の場合、第二ステップの仮設住宅というか仮設の街を経て、本格的な復興という二段構えの作戦になってゆくと思います。
その間に水産関連業が復興するかとか(これも土地問題がありますが)、その他の産業を持ってこれるかとか雇用の課題が積まれています。
多くの企業や人が支援を申し出ていますが、一年経ってもボランティアの人さえ泊まるスペースがないというのが現実なのです。
仮設住宅の生活が長引きそうだとわかった時点で、仮設住宅の環境をよくしようという住民の皆さんの要求も上がってきています。しかし、復興の都市計画も進んでいるので、そのための用地を今使うわけにもいきません。
一時的に町の外に避難しようにも、仮設の入居率が98%という現実では、一度出ると戻ってこれる時期が読めなくなるため、狭いところで我慢しているジレンマもあります。
正直、IT支援以前の問題が大きくのしかかっているののですが、何もできませんと諦めてしまえば、何も進まないとも思います。
ここまで状況が酷いと考えつくプランさえ浮かばないのですが、時間と場所のハンデをカバーすることこそがIT技術の本来のバリューであり、何かできることはあるはずと諦めずに考えてゆきたいと思いました。
本格復興を待つのではなく、本格復興が始まるまでの数年間にできることはたくさんあるはずです。