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夏目房之介の「で?」

細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』新潮社

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細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』(新潮社 2013年10月25日刊)を送っていただいていたのだが、ちょっと忙しかったので、ようやく読んだ。
いやあああ、これはすっごく面白い本です。オススメです。とくに、映画史、アニメ史、あるいはマンガについても研究的な興味のある向きは、ぜひとも読んでおいてほしい。

本書は、アニメーション映画の前史と初期から1950年代までの米アニメーションの歴史を、アニメーションを成立させたいろんな要素、映像技術のみならず前提となったボードビルショーとの関連、描かれる絵とアニメーションとの成立過程、音と映画が出会う頃の音楽、声とアニメーションの意外なほど深い関係などを論じてゆき、最後には現在の日本アニメと米アニメーションとの差異に関する仮説にいたる、興味のつきない「表現」の歴史であり、映画史の一側面を通じて身体性と人間とその表現を問う意欲作である。

著者の細馬は、これまた非常に面白い経歴で、物理を志ざしながら、途中で日高敏隆のもとで動物学を専攻し京大大学院で博士課程まで進み、人間の日常的な行動研究に転じ、絵はがきやジェスチャーの研究などをしている人である。そもそも、その時点で相当面白いが、その人がアニメーションを研究すると、必然的に人間の身体性やコミュニケーションの生態に興味がいくのだろう。まさに「身体表象文化学」ともいうべき研究領域である。講演やパネルディカッションの講師にお呼びしたい人だ。おまけに、アニメーション分析にも表現論的な視覚を持っていて、私などは超ヤバいほど刺激される。


目次を紹介する。
第一章 アニメーションとヴォードヴィル
第二章 『リトル・ニモ』 ― ウィンザー・マッケイの王国(一)
第三章 『恐竜ガーティ』 ― ウィンザー・マッケイの王国(二)
第四章 商業アニメーションの時代
第五章 科学とファンタジーの融合 ― フライシャー兄弟
第六章 映像に音をつける
第七章 ミッキーはなぜ口笛を吹くのか
第八章 ベティ・ブープはよく歌う ― フライシャー兄弟の復活
第九章 トムとジェリーと音楽と ― スコット・ブラッドリーの作曲術
第十章 ダフィー・ダックに嘴を
終章  アニメーション界と現実界

初期アニメーションとボードビルの関係については、そもそも当時見世物として行われていたライトニング・スケッチをアニメートしたのが、最初期のアニメーションであり、また当時としては画期的に優れたアニメーションを制作した偉大な漫画家ウィンザー・マッケイがもともとボードビル周辺から育った人だったこともあり、ある程度の知識はあったが、この本でずいぶん詳細に知ることができた。著者はかなり広範に原書に当たり、非常にわかりやすく語ってくれる。平易な、しかし面白い文章を書ける人なのだ。
ウィンザー・マッケイのアニメーションにおける功績についても、新聞マンガの絵の分析を「奥行き」と平面の比較から行った上で、アニメーションにおける奥行きとの関係で論じるなど、きわめて表現論的で、すごく勉強になった。刺激的な指摘が満載で、とにかく飽きない。

しかし、さらに驚くべきは、本書が音と映画の同期をなしとげる科学技術史と、そこにこめられた動機、たとえば最初は観客が画像に映る歌詞を見ながらみんなで歌った歴史から始め、歌いやすいようにフライシャーが始めた歌詞の上をぴょんぴょんと玉が跳ねるアニメーションへと進み(それに類する表現を古いアニメーションで見た記憶がある)、やがてそれがアニメーションと音の関係を作り上げてゆく過程を論じてゆくあたり以降である。
やがてトーキー(そう、単に音が同期するだけでなく、会話(トーク)が同期するからトーキーなのだ)になると、徹底的に発音と口をあわせることが至上命題になってゆく。それ以前に、映画で写した本物の人物をアニメーションに落とすフライシャー兄弟の試みがすでに、身体性とアニメーションの関係を示しているのだが、口と発声(歌)との同期こそが、米国アニメーションの特徴となってゆくのだという。
英語の発音と音素の多さ(日本語はきわめて少ない)も背景にあるだろう。しかし、これで60年代に観たアメコミヒーローのTV紙芝居的なアニメーションで、なぜか口だけ実際の人間の唇を使っていた不気味な番組の謎がひとつ解けた気がする。

こうしてたどられて行く米アニメーション史は、したがって口の表現の発声との一致に執着してゆき、日本アニメの必ずしも同期しない文化と、最後の章で比較される。著者自身も「粗い議論」になると断っている通り、能や文楽の口元と発声の不一致や特撮ヒーローの動かない口を引くなど、やや面白すぎるところもあるが、目からウロコの指摘も山ほどあった。

終章で著者のいうところによると、チョークトークをアニメーション化した段階では、黒板上の絵がコマ撮りによって動くという、いわば黒板を撮った映像だったものが、ウィンザー・マッケイによって初めて「現実界」から離れた「アニメーション界」を自律させ、そこにまたキャラクターも生まれるという。さらに、フライシャー兄弟(そう、ベティ・ブープやポパイの生みの親である)は、映像の中で「現実界」と絵の世界を往還する道化師ココによって、多層化した世界を導入した。この分析には舌を巻いた。そして、こうした分析はあるいはマンガ論にも応用できそうだと感じた。
とくに、「動物と人間」の関係を論じる終章の後半では、バグス・バニーが「人間/動物」を往還して、「人間/非人間」というカテゴリーを相対化すると論じるのだが、この議論をもし手塚『地帝国の怪人』のウサギ人間の悲劇に関する議論に応用したらどうなるか、わくわくして読んだ。

ほかにも、音楽とアニメーションについての議論は、非常に具体的で、大昔に観た古い米アニメーションや最近U-tubeなどで観られるものなど、少ない例を思い出しながら読むと、じつに勉強になる。「音」は、マンガに直接あらわれることはないので、ここでの分析がそのままマンガ論にはいかせないが、初期アニメーションではしばしば音に相当する破線を多用していたと記憶する(気づきの破線もあったように思うが、いつ頃のものかははっきしりしない)。この破線は、新聞マンガからきたのか、それともアニメーションの影響が強いのか、前から疑問に思っていた。むろん、この破線的な表現が中世日本にすでにあったことは有名だが、それが近代のマンガにそのまま継承されたとは思えない。むしろ、アニメーションとの相互影響で浸透した可能性があると、私は何となく推測している。そのあたりも、こうした研究の延長線上で明らかになるかもしれない。

とにかく、色々と刺激的な記述があって、とてもブログで全部書ききれない。著者同様に『ブルースブラザース』で老キャブ・キャロウェイに出会い、この人が元祖「踊る指揮者」(かつて日本のTV歌番組でスマイリー小原がそう呼ばれていた)であり、かのコットン・クラブの人気者だったと知った私は、この本で、キャブがアニメーションにも深く関わっていた(それも、あの「ミニー・ザ・ムーチャー」で)ことを知った。
音、発声、口、音楽とアニメーションをつなぐ、人間の身体性を巡る視点は、これまでモヤモヤしていたものを一気に問題系として見せてくれた気がする。

いやあ、あんまり面白かったもので、興奮してとりとめもない記述になってますが、つまりそれほど刺激的な本だということであります。

追伸

書き忘れた。
本書に学ぶことがあったことのひとつに、この本が学生や聴衆に古いアニメーションを見せて、感想を聞いたことをヒントにして考えられてきたことがある。タイトルの質問形もそこからきている。学生が最初に見た感想は、たいてい退屈だったりするが、そこに答えようとすることで、課題を見出し、研究レベルで検証してゆくのである。
これは、及ばずながらも僕も試みようとしていることだし、また論文を書こうとしている学生たちにとっても「問い」をいかに「研究」にし論文にするかという発想と追い込みの見本でもあるのだ。
また、古い映像を見せながら、一箇所見所を示唆すると、次から「笑い」が起き、見方が変わってゆくという経験も勉強になる。そういうことを、平易な面白い文章で書けるというのが素晴らしい。

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