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夏目房之介の「で?」

川上弘美原作・谷口ジロー作画『センセイの鞄』双葉社

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これも、しみじみといい作品ですね。
白髪の老人となったセンセイと、教え子の女性が、毎度同じ飲み屋で会って食事をしたり、散歩したりする淡々とした話なんだけど、人の行き交いの不思議さを感じさせる。

ちょうど、明日深夜の夜話でやるオノ・ナツメ『リストランテ・パラディーゾ』を読み返したばかりなので、何か妙な感じだ。
オノ・ナツメは好きで、個人的には『not simple』の質量感や『さらい屋 五葉』の感じが好きだが、最初に読んだのは多分「エロティック・エフ」連載の『リストランテ』だと思う。人の関係の捉え方が面白いなあ、と思い、何となくわかる気はするが何でイタリアなんだろうと思ったりした。この作品が、老眼鏡と年配の紳士「萌え」というジャンルなのだと聞いて、ああ、そうなのかと思った。

「カレセン」とかいう妙な言葉のくくりで取材を受けたのは、その後だった。
別に人の趣味だから、いいのだが、カレセン趣味の人々は、基本的に(僕を含む)現実の対象が話すことに興味はなく、あるいは自分の聞きたいことしか聞いておらず、自分達の「萌え」幻想に憧れているだけなのだ、ということがよくわかった。相手に言葉が届かない、交わらない感じは最後まであった。そのことに、「萌え」の人々が少し自覚的なのか、それとも自覚することにも興味がないのか、僕には理解できないところだった。

要するに、少女マンガがかつて描いていた性欲のない男性という、僕などからするとありえない存在の希求なのかな、とか思ったが(男性マンガの描く、都合のいい女性像の対偶になるのかな)、『センセイの鞄』や『リストランテ』には、そういうくくりに留まらない人間関係の何かに手が届いているように思う。

今僕は大学のセンセイとしてふるまっているが、それはそれで成り立つもんだなとも思う。実際の人間としての存在ではなく、場所に応じた役割としてのセンセイ。そういうことでいえば、それが自分自身のようになっている人も、世の中にはいるのかもしれない。初期の『天才柳沢教授』も、そうだったのだろうか。僕にはなれないタイプのセンセイだけど。

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