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ライフワークとしての学びを考えます。

覚えるだけではNG。忘れないと学べない理由

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知人の女性が二人目のお子さんの子育てを始めたとき、「一人目より楽かも」と言っていました。さぞかし大変なのかなと心配していましたら意外と余裕で、それどころか以前会ったときより穏やかになっていて瞠目したことがあります。

この方の言う「楽」とは、一人目の子育てで身につけた身体の動きが、意識しなくてもできるレベルになったからではないでしょうか。

これは、「わすれる」ということを意味しています。「わすれる」とは、イヤなことを「忘れる」、テストで覚えたことを「忘れる」、持って行くべきものを「忘れる」など、ネガティブな意味として捉えられがちですが、じつは違います。

知人の女性は、一人目のときは初めてのことばかりで意識しなければ身体が動けませんでした。しかし、二人目のときは熟練しているので、意識しなくても身体が勝手に動くようになる部分が増えます。そうすると、身体の動きをわすれて力みがとれるのです。力みがとれれば子育てを楽しむ余裕も出てきます。だから精神的に「楽」になったということです。

たとえば、初心者がパソコンのキーボードを打つとき、操作にとらわれてしまい文章を書くことが困難になります。しかしブラインドタッチができるようになれば思考が邪魔されなくなり、あっという間に時間が経過していることと同じです。

中島敦の小説「名人伝」では、弓の修行を終えた弟子が、呆けた木偶(でく)のようになっている場面が描かれています。弓の名人になった弟子は、弓を見て「これはなんだ」と問います。どんな的にも当てる技術を身につけた名人は、弓も、射ることさえも忘れてしまっていました。その弟子を見た師匠は「これこそ天下の名人だ」と言うのです。

中島の「呆けた木偶」の比喩は、学んだことを一旦わすれれば身体の力みがとれることを暗示的に言っています。わすれることで力みがなくなれば、一段高い領域で物事に没入できるようになるのです。

自らを一段高いレベルに引きあげてくれる「わすれる」なのですが、意識して忘れようとしても出来るものではありません。なぜなら、本来の忘れるの意味は、覚えていたことが自然に頭から消えることだからです。「忘れる」ことを覚えていては、「わすれる」ことになりません。

「わすれる」状態に入るヒントは、自分自身を意識しなくてもすむ簡単な行動から開始すると良いのです。
私は、気乗りせず文章を書けないとき、好きな本を持ってきて書き写します。30分ほど書き写せば没頭してきます。これは、書き写す作業をしているうちに本の著者と一体となり、自分のことをわすれているのです。この勢いで他の仕事も片付けることができます。

覚えるだけが学びではありません。人は「わすれる」ことで自らの能力を引き出すことができるのです。

 
【参考文献】
中島敦『李陵・山月記 弟子・名人伝』角川文庫(1968年)

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