最初からある才能が本当に使い物になるとは言えません
世の中には、才能に恵まれた人はたくさんいます。
私の周囲には、幼い頃からたくさんの天才少女、天才少年であふれていました。
しかし、そのほとんどは、今、周囲から期待されていたような結果になっていないのが現実。その方の人生が幸せであるかどうかは別として。
それでは、なぜその才能を開花させることができずに、または、その才能に気付かずに終わってしまうのか。
そこには、「才能」という言葉に宿る悪魔の響きがそうさせるからです。
「あなた才能あるよ」
そう囁かれたとたん、その才能は開花しなくなる。
いかに「才能」を生かすことが難しいか。
2014年9月5日日本経済新聞「プロムナード」にノンフィクション作家の高橋秀実さんが「『才能』なんてありません」という記事を書かれていました。
・・・・(以下引用)・・・・
あるアメリカ映画でこんなセリフを耳にした。
「He is natural」
字幕では「彼には才能がある」と意訳されていたのだが、要するに「自然だ」ということ。「才能がある」とは「自然にできちゃう」ということなのである。
字幕では「彼には才能がある」と意訳されていたのだが、要するに「自然だ」ということ。「才能がある」とは「自然にできちゃう」ということなのである。確かにスポーツでも勉強でも教えずとも、自然にできちゃう人たちがいる。というか、できる人というのは大抵、教えなくてもすぐできちゃうのだ。そう考えると、彼らはある意味、不幸である。物事はできないからこそ頑張ったり、工夫したり、達成感を覚えたりするもので、最初からできてしまったらつまらない。そればかりか、自然にできちゃうことを下手に努力してやろうとすると自然にできなくなり、元には戻れなくなってしまう。「才能」というと「伸ばす」「磨く」ものとして珍重されがちだが、「自然」は扱いが難しく、むしろ災いを避ける防災の観点から考えたほうがよいのではないかとさえ思えるのである
・・・・(以上引用)・・・・
記事「才能や能力があるかどうかは親を見れば分かる」にも書きましたが、「自然にできちゃう」、これこそ、遺伝子の成せる技です。
しかし、せっかくの自然も、「自意識」のワナにはまると自然ではなくなってしまいます。
人間には自意識があります。大人になればなるほど、その自意識の縛りは強くなる。
「あなた才能あるよ」と周囲から言われたとたん、自分に才能あるかどうか確認することばかりに意識が行ってしまうからです。
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」とは、私は「自意識のワナ」のことではないかと思います。
だから、真に天才と呼ばれる人が、大人になっても子どものように無邪気な人が多いのはそのためです。
ただし、人間は、「才能あるなあ」「上手だなあ」というところに感動するわけではありません。
作品に人生の深みを感じた時に感動する。
作品に宿る人生の過程を、自分と重ね合わせた時に共感する。
だから、「最初から自然にできちゃう人」に、本当に人を感動させる才能があるとは限りません。
以前書いた私の記事を引用します。
ある有名なバレエダンサーが言っていたことば。
「最初から足の上がる人は才能があるとは言えません。
足が上がらなくても毎日一生懸命練習する。
そうすると、ほんの少しずつでも上がるようになる。
足は心を込めて上げなければ上がらない。
だから、その0.1ミリにも魂が宿るようになる。
そういう人は、足を上げただけでもそこに重みというか何かがある。
お客さんが感動するのはそういうダンサーです。」
「すぐに達者に弾けるからピアノの才能がある」
「最初から高い声を持っているから声楽の才能がある」
そう思ってしまいがちですが、実はそうではないというのです。
もちろん、「足が上がらないから才能がある」と言っているわけではありません。
動かないものを動かすようにする。出来ないものを出来るようにする。その過程における成長が才能なのではないでしょうか。
成長こそが人を感動させるのだと思います。