人はなぜ激しくネット上で批判するのか それでも批判を恐れずに林檎の木を植え続けるとおこる良い事
ブログで発信していると、思いもしないコメントに呆然とすることがあります。
書きたいことを書かせていただいているのだから、それは当然だと思って書いていても、ことさら厳しい「言葉」を使われるとやはり傷つきます。
しばらくはそのことで自分の頭が占領されてしまい、創作作業の質が落ちていることが分かることがありはっと我に返ることがあります。
もちろん、「これは自分に非があった。間違っている」と認めた場合は書き直すこともあります。わざわざ教えてくださって有り難いことだと考えています。
そこで書き込みをする方というのは、極度に手厳しいもの、または思いもしない誹謗・中傷に近いものになると、ダミーメールが多いことが分かりました。
私の知り合いで、ハンドルネームで音楽の演奏を手厳しく批判することをネット上で書いている人がいます。プロではないのですが、かなりの名演奏を聴きこんでいて、悪いと思ったものは尖った鋭い言葉を使いバッサリと切り捨てる。
たしかに、同じ演奏を聴いていれば納得する部分もありますが、演奏している立場で人から批判されたこともあるので、「本人がいつかは見るだろう」と思うと自分はとても出来るものではありません。
顔が分からなければ、身元が判明しなければ、仕事先やお客さんにも迷惑がかかりませんし、言いたいことを言いやすいのは確かだと思います。もし、自分が分かれば、相手が傷つかないような言葉を吟味するのでしょうけれども、身元がわからないところからだとやはり言葉が激し方向にエスカレートしやすいのかもしれません。
実際対面していれば、多少きつい言葉でも「これは良心から言っているのだ」とか「単に口の悪い人なのね」と感じることもできます。しかし文字だけだと、相手の様子がなかなか感じられませんので、想像だけで心底怖くなることがあります。
しかし、そういう方というのは、聞いてみると実は大変な正義感を持って書いていらっしゃいます。
「私が言ってあげないと皆さんが迷ってしまう」
という強い正義感で書いているのです。
東洋のタオイズムで「陰極まれば陽となる」という考えがあります。
物事は極端にふれれば、本当は何が正しいのか何が悪いのかなどなくなってしまうことなのかもしれません。
最近、母親が時間が出来たらしく絵の勉強を始めたようです。
教室では、15人の生徒たちが最後に描きあがった絵を大きなテーブルに広げて、お互いに見せ合い、先生の講評をいただくのだそうです。
先日は、皆さんで女優の浅野ゆう子さん(写真)をモデルにして描いた作品を写真で見せてもらったのですが、あまりの違いに唖然とするほどでした。
本人と似ても似つかなかい力強い個性的な顔だったり、鼻が強調されてピノキオみたいに尖っていたり、洋服だけが立派に描かれて肝心の顔はあっさりしていたり・・・。
15人いたら15通りの浅野さんが表現されていました。
同じ題材を描いても、それぞれの感じ方というのはまったく違う。
だから、自分が良いと思っていても、相手は良くないと思うことは当然あるわけです。それを分かって書いているのと書いていないのとではずいぶん違うのではないかと思いました。
だからと言って、批判を前面肯定しているわけではありません。ブログのコメントだけでなく、ネット上に書けば本人はいつかは見るであろうから、言葉の使い方には気を配ってくださればというのは切なる願いです。
未熟な自分自身の内面にも「正義感」のような部分があることを分かっています。やはり、常に見つめていかなくてはならないですね。
実名でブログを書き、そして世界は様々な考え方に満ち溢れているとしたら、いつ批判の対象になるかもしれないという気持ちは常に持っています。しかし、それを恐れすに本音を書いていると自分の創造性というものがさらに広がっていくのが感じられます。「そんなに書いてもうネタがないでしょう?」といわれますが、そんなことはありません。書けば書くほどあふれてくるのです。これは不思議な事実です。
そして、いろいろな考えがあるということは、自分の思いに共感してくださる方もどこかにいるということです。ご縁あって、どこかでつながり奇跡のような出会いもあります。
「たとえ明日世界が終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える」というマルティン・ルターの言葉を思い出します。きっと、明日世界の終わりだとしても、私は表現し続けると思います。