最悪の状況でも人生にイエスと言う それが人生に大転換をもたらす
私には、ある音大時代の友人がいます。
彼女は自分が音楽の道を選んだことを後悔していました。
大変な努力家でした。しかし、残念ながら同じ努力をしていても思い通りにならないことはあります。
「自分をこの道に導いた先生を恨んでいる。」
彼女がそう言っていたのを聞いて心が痛み、またもう一方ではその気持ちを否定できない自分もいたのです。
今は田舎に帰り、事務の仕事をしていると言います
そして「気持ちが楽になる薬を飲んでいるの」と言われ一瞬言葉を失いました。
苦悩していたのだと思いました。
そして後日、彼女の恩師に会ったのでそのことを話したのですが「残念ながらもともと向いていないという人はいる。でも裾野を広げなければならない。」とおっしゃっていて、そう思ったならなぜもっと早くそう言ってあげなかったのかと思いました。
小さい頃から子供らしい楽しみも我慢して練習の日々。高校から音大付属に入学すれば、一般大学への選択肢は限りなく少なくなります。
「音大に学生を何人入れたか」というのも先生にとってのキャリアになるといわれています。私は、それを「良くない」とは裁けないと思いました。
しかしそのとき自分は、「出世しなくてもいい、そうならない人生を生きよう」と心の中で誓うことはできました。その後、自分が稽古する子たちには、音大の良い面と悪い面を話すようにして、強く勧めません。私はアカデミックな世界から見たらばあまり良くない指導者だと思います。
彼女は今どうしているのでしょう。
返事の来ない年賀状を毎年出し続けています。
今は、彼女の心は私の鏡だと思うことができます。
彼女の姿に自分が容易に重なるのです。
V.E.フランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」。
ナチスの収容所で、極限状況の中、それでも気高い心を持ち続けている方々がいた。
そして生き残った人たちは「人生から何を期待できるか」とは考えず、「人生は、私に何を期待しているか」と考えた。
その話を聞くだけで、勇気をもらえ、人生の意味を信じることができます。
だから「苦悩しているときは成長をいただいている。」
そして、苦しいときにばかり心が奪われますが、実は人生上手くいっていると思われたときこそ、それも人生からの問いであり導き。舞い上がることなく心を平静に処することが大事だと感じました。
未熟な自分にも、やっと少しずつですが人生からの問いを感じられるようになってきました。
近い将来、感謝の気持ちで自分の人生に自信をもってイエスと言えるように。
その瞬間から、職場が、世界が、違って見えてくるのだと信じています。