生きることにもう何の意味も持てないと思ったとき、起こることに抗わず成り行きに任せることが人生に劇的な変化をもたらす
登山をして、疲れて足が一歩も前に出ないと思ったとき。とくに視界が悪く、近くの木々や藪しか見えないようなときは、本当にしんどくなり極度に足どりも重くなります。しかし、かすかにでも頂上が見えると不思議と元気になり再び歩くことができるのです。
これは人生でも同じだと感じます。
頂上、つまり目標である登る意味が見えればやる気が出て成果も上がる。
しかしよく考えてみれば、本当は頂上が見えても見えなくとも、頂上はあるのです。だから、見えても見えなくても周りの自然を楽しみ歩くことをに意味を持ち、状況を受け入れて歩けば良いのです。晴れた富士山も美しいですが、荒れた富士山もまた良いと感じるか。どんな状況でも富士山はそこに在るのです。
もし自分が「頂上はないのかもしれない」と思ったとしたら、そのとたん歩く気力も歩く意味も失うでしょう。
「人生に意味を持つこと」
これがいかに大事なことか、V.Eフランクルの書「夜と霧」から私は感じました。
フランクルは、ナチスドイツの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人です。精神科医だったフランクルは、冷静に収容所での出来事を記録し、地獄のような日々において囚人たちが何に絶望したか、何に希望を見い出したかを書いています。
強制収容所の中でFという友人が「3月30日に戦争が終わり収容所を解放される夢をみた。」とフランクルに告白します。夢のお告げの日が迫っても解放する見込みはない。彼はついに、3月29日突然高熱を出して倒れ、3月30日には意識を失い、3月31日に発疹チフスで亡くなりました。
また他にも、なぜかクリスマス付近になると力尽きてなくなる方々が増えたそうです。囚人たちの間で「クリスマスがきたら解放される」という根拠のない期待があったのではないかと書かれています。
フランクルは
「病気と希望、あるいはその喪失といった情緒と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということを熟知している」
と言います。
ニーチェの「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える」という格言があるように、人はよりどころを失うと痛ましいほどにあっというまに崩れてしまうのです。
自分から人生を見ることばかりだと、何が人生からやってくるのか期待しているということになります。そうすると、何かが起こるたびに意味を見失ってしまいます。
何かが起こったときどう処するか。
起こること、それは「人生が自分に何を期待しているのかという問い」であり「生きるとはその問いに答える義務を引き受けること」という、コペルニクス的転回を経ることにより、人生に劇的な変化と意味を見いだすことができます。
そのような人生に対する在り方に達した人たちは生きて生還したといいます。フランクル自身は、抗わずに「成り行きに任せた」と語っています。
彼らは、収容所のような生きる見込みが皆無のような環境の中でも絶望から踏みとどまり、希望を見失いませんでした。
だから私は、フランクルの言葉から、
「起こることはすべて意味がある」
そして「起こることは”YES”である」
と解釈します。
そして、「人生失敗した」と思えるような、このわが人生も生きるに値する、と信じることができます。
「生きていることにもう何の意味も持てない」と思ってしまいがちな先の見えない現代において、一筋の光を見る思いがしました。
フランクルは、私たちに人生に対する素晴らしい示唆を与えてくれていると思います。