地獄から抜け出る道がひとつある 嫌いな人を抱いてごらん
テレビのニュースで、ご家族が凶悪犯罪に巻き込まれた方を見ると、その表情は大変に険しいものを感じます。
弔い合戦のような長い年月の裁判が続き、苦しみはさらに増しておられるのではないかと想像します。
もし最終的に、犯人が死刑を受けたとしても、亡くなられた家族が生き返るわけではない。
もし自分がこの立場であったらと思うと心は激しく揺れる。
リチャード・アッテンボロー監督の映画「ガンジー」は、インド独立運動の指導者『偉大なる魂』と呼ばれた、マハトマ・ガンジーの生涯を描いています。
最初の舞台である南アフリカでは、打たれても打たれても抵抗せずに立ちあがる若きガンジーの姿があり、その後、「暴力をいっさい用いずに闘う」という哲学が生涯貫かれることになります。
映画の終盤。
1947年8月、アリ・ジンナーを指導者としてパキスタンを建国。そのため、国境を中心として国内のヒンドゥー教とイスラム教の宗教対立が激化し、内戦状態になりました。
これを悲しんだガンジーは、暴動の中心地カルカッタで「死の断食」を行ない、民衆に武器を捨てさせることに成功したのです。
クライマックスでは、断食で衰弱しきったガンジーのもとに、暴動を起こしていた男性が現れます。
男性は、息子をイスラム教徒に殺され、その憎しみと報復のため、頭を壁に叩きつけて子供を殺してしまったのです。
男性はガンジーにパンを投げ出して叫びます。
「食べろ!俺は地獄行きだが、あんたを助けたい」
しかしガンジーは答えます。
「地獄へ行くのは神様が決める。」
「地獄から抜け出る道がある。子どもを拾うのだ。親を殺された子どもを。(手で背の高さを示しながら)これくらいの子がいい。自分の子として育てるのだ。ただしイスラム教徒の子を。その子をイスラム教徒として育てるのだ」
男性の見開かれた瞳。
彼はガンジーの言わんとしている意味に気がつきました。
そして、そのままガンジーのベッドで泣き崩れてしまうのです。
「行け。神のお恵みを」
それは単に「償いをしなさい」という意味ではありません。
なぜ憎しみを感じるのか。それは、そこに自分の嫌な部分を見るからです。憎しみは自己嫌悪。だから、憎しみの対象であるイスラム教徒の子をイスラム教徒として育てるというこは、最大のエゴと向き合わなくてはならない。
そして、一切逃げることはできない。
それは、自分のエゴを見つめよ、全てのものと和解せよ、「憎いものを抱いてごらん」というガンジーの声と感じました。
最後、自分というエゴと和解することができれば、男性の魂は救われる。
愛とは、なんと厳しく険しい道を選ばせるのでしょうか。
愛の深さを感じた、素晴らしい映画でした。