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ライフワークとしての学びを考えます。

なぜ人は剽窃盗用してしまうのか 空っぽなのを認めなさい

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「あなたのブログ、こちらで剽窃盗用されていますよ」
 
ある日、見知らぬ方からこのようなコメントをいただきました。
 
指定されたところを見てみると、記事が最初から最後までそっくりそのまま掲載されており、私の名前はありません。あたかもその方が書いたようにふるまっている。
怒りというより、「ああ、かわいそうに」という感情がこみ上げてきました。
 
まずは、私のような者の文章ではなく、もっと素晴らしいものはたくさんあっただろうに、という思い。
そして、「自分も一歩間違ったらこちらの道に行きかねない。」という、エゴの暗い部分を覗き込んだような気持ち。
その二つの感情が入り混じっていました。
 
数日前の殺人犯罪ニュースで、職場の女性を殺害した逮捕前の図書館職員が、そ知らぬ顔をしてテレビのインタビューを受けている場面を見ました。その表情はあたかも良き職場の知人であるかのようにふるまっている。
 
私はなぜか、その顔を辛くて正視できませんでした。
その姿に自分の見えないエゴが重なったからです。
正義を振りかざすことなんてできない。一歩間違ったらこれはお前の姿である。
もう一人の自分が叫んでいました。
 
このような大きな犯罪と剽窃盗用ではその重さは比較にならないほどの差があります。しかし、人の心にはどんな方でも、そういう弱い面はあるのだと私は感じています。
 
例えば、日本画家の平山郁夫さんは、大変素晴らしい画家だと思いますが、盗作疑惑を言われたことがあります。
 
絵は、「贋作」といわれるものが多く存在するし、文章以上にその誘惑が人間の心に忍び込んできやすいものだと思います。
 
そして、作曲家のブラームス。ブラームスは、ベートーヴェンを崇拝していました。
偉大な先人にがんじがらめになって、創作が21年もかかってしまった交響曲第一番、最終楽章のテーマは、ベートーヴェンの第九「歓喜の歌」のテーマにそっくりなのです。
 
音大時代、音楽理論の授業で、日本を代表するような立派な作曲家の先生が、ブラームスの交響曲第一番について講義を行っていたときのことです。
「この部分。皆さん分かりますね?七転八倒しながらベートーヴェンの呪縛から逃れられなかった一人の人間の姿ですね。ああ、これ以上はもう、武士の情けで言いません・・・。」と苦しそうな表情をなさったのを未だに覚えています。いくら似ているといっても、ブラームスは、自分のフィルターをかけているので、それが自分の言葉となっていると私は感じます。しかし、ブラームスほどの資質を持った芸術家でも、すでにある素晴らしきものから逃れることは難しいということなのです。
 
音楽の場合、一般的にはすぐにわかり難いものですが、こういうケースは多く存在します。
 
もし、自分がこのブログで引用したところを全て書き出しなさいといわれたら、気がつかないうちに一文の中で2つや3つはすでに引用していると思います。
現在ある書物のアイデアは、すでにシェイクスピアの時代に出尽くしている、とも言われています。
皆知らないうちに、模倣や引用は行っているのです。
 
例えば、親鸞。
親鸞の教えが書かれている代表的な書物「歎異抄」。これは弟子である唯円の手によるものです。唯円は、師匠の教えは、こうではないか?ああではないか?と必死に解釈し歎異抄を書きました。
親鸞の言葉ではあるが、唯円の中で咀嚼され、一般の人にも伝わりやすくなっている。その修行によって唯円は成長していったのではないかと思います。
私は、文章修行には、この過程が必要なのではないかと考えています。
 
 
2012年2月3日ブログ記事「お前は個性などない。空っぽだ。真の創造性にあふれる人になるために」から今一度引用さていただきます。

     ・・・・・(以下引用)・・・・・
 
2012年1月30日日本経済新聞にて日経小説大賞の選考委員3氏、辻原登さん、伊集院静さん、高樹のぶ子さんの座談会が掲載されていましたのでご紹介します
 
「音楽会ではベートーヴェンとモーツァルトとブラームスばかりがもてはやされる。それは彼らが人間の本質にかなって五感を刺激するからなのだが、20世紀になってから彼らのような音楽家は登場していない。なぜだろう」というものだった。それは憧れているもの、よきものの模倣をだれもしなくなったからだ。(高樹氏)
 
自分が信念としているものと同じにおいがする作家の文章を見つけることだ。息遣いは全部違うけれども、同じような嗅覚、文学において自分が目指しているのと同じ頂を目指しているように思える人の文章だ。(伊集院氏)
 
「書くな。読め」ということだ。読んで、読んで、読んで、書くときはまねればいい。「君の中にオリジナリティーなど一つもない」という。まずそこから出発しないといけない。今の若い人はみんな自分の中にオリジナルなものがあると思い込んでいる。それは幻想だ。まずその幻想をぶち壊さないと。(中略)本当は何もなくて空っぽであるということを思い知らせないと、本当のクリエーティブな作業はできない。(辻原氏)
 
     ・・・・・(以上引用)・・・・・

皆、苦しんでいるのです。
 
本当は空っぽなのです。
 
「読んで、読んで、読んで、書くときはまねればいい。」
 
この言葉が、どんなにか私を勇気づけてくれたでしょう。
 
でも、そこに絶対的に必要なものがあります。
 
「自分は空っぽな一人の未熟な人間である」ということを認める。

現実との理想の差を見ることは辛い痛みを伴います。
しかし、まずそこから始まるのだと思います。
 
楽をするな。
文章を紡げ。
そして、一度書き出したら最後まで書ききれ。
 
常に自分に言い続けている言葉です。
自らの成長を祈願して。

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