「国力は欧米の1/20」と分かっていても、「見たくないものは見ない」と封印し、70年前に戦争を始めた日本。「見たくないものは、見ない」体質、現代は変わっているのか?
課題山積みの現代の日本に対して、今年から日本経済新聞で「三度目の奇跡」という読み応えがある連載を始めています。
1月3日は「開戦前、焼き捨てられた報告書」。
今の時代に警鐘を鳴らしています。
---(以下、引用)----
70年前の日米開戦前夜。正確に日本の国力を予測しながら、葬り去られた幻の報告書がある。(中略) 英米との戦争に耐えられるかどうか、分析を命じられた秋丸。東大教授の有沢広巳、後の一橋大学長になる中山伊知郎ら著名学者を集め、徹底的に調べることにした。
(中略)
調査開始から1年半を経た41年半ば。12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸軍首脳らに対する報告会が催された。意を決するように、秋丸が言った。
「日本の経済力を1とすると英米は合わせて20。日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降は経済力は下降線をたどり、英米は上昇し始める。彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。秋丸機関が出した結論だった。
列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。「報告書はほぼ完璧で、非難すべき点はない」と分析に敬意を表しながらも、こう続けた。「その結論は国策に反する。報告書の謄写本はすべて燃やせ」
---(以上、引用)----
この「日本の国力は、欧米の1/20」という事実を見ずに、いわゆる「国策」で始めた戦争の結果は、まさに悲惨の一言でした。
さて、翻って、現在の日本。
本記事にあるように、例えばこのままでは財政破綻したギリシャのようになり、日本国民の生活がとんでもなく悲惨になることは、誰の目にもあきらかです。
しかし、その事実に対して、誰も問題に手を付けない。付けられない。
では、なぜ付けられないのか?
その部分にメスを入れようとする日本経済新聞「三度目の奇跡」取材班の思いが伝わってきます。
ただ、一つ気になるのは、本日の連載を読むと、そのような問題が起こった事実は分かるのですが、なぜ「見たくないものは、見ない」という結論になるのか、どのようにすればその結論を回避できるのかが、提示されていないことです。
なぜそのような行動形態になるのか、その原因が分からない限り、ふたたび同じ行動を繰り返します。
実際、昨年の日本は、まさに70年前の日本の行動を繰り返していました。
例えば、3年前に当ブログで「極めて危険な、空気読み過ぎ+思考停止する日本」というエントリーを書かせていただきました。
自分のブログで恐縮ですが、再度一部を引用します。
---(以下、引用)----
(前略)
津本さんが指摘されているように、あの頃も、ノモンハン、ガダルカナル、インパール、他の例を挙げるまでもなく、軍部では、論理ではなくその場の空気でモノゴトが決まっていきました。
そして世間では、戦争に向かう社会全体の空気に逆らう人に対して、当時は「KY」ならぬ「非国民」というレッテルを貼りました。
戦争末期には日本全体に厭戦気分が漂い「戦争は真っ平」という空気がありましたが、戦争の当初は日本全体が緒戦の戦勝に酔った空気が漂い、日本全体がズルズルと泥沼の中に入ってしまったこともまた、我々は認識すべきではないでしょうか?
論理が排除され、思考停止状態になり、空気でモノゴトが決まっていく日本。
これ、極めて危険です。
先日のエントリー「幻想の省エネ大国・日本?」でも述べた通り、最近、日本でもその兆候が見られます。
一旦、日本全体が空気だけでモノゴトが決まってしまうモードになると、論理的な議論が極めて難しくなります。
そうなる前に、思考停止状態に陥りかけている社会に対して、私達一人一人が自分の頭で考え、本来何をすべきなのかを問いかけていく必要があります。
---(以上、引用)----
上記はあくまで一ブロガーの意見なのですが、このような視点で深掘し、新たな行動を提案するような、日本経済新聞ならではの考察が、「三度目の奇跡」シリーズにあっても、いいのではないか、とも思ったりしました。
あるいは新聞というメディアなので、その点は、読者に委ねられているのでしょうか?
この連載で、われわれ日本人一人一人が、自分自身で考えていければ、たとえ今年は厳しい年になっても、あとからふりかえると「2011年が転換点だった」と言われる年になるのではないか、と思います。