ある経営者の引き際
私が勤務する日本IBMでは、「天城ホームステッド」というお客様エグゼクティブ向け宿泊研修施設があります。
ここでは、お客様の経営幹部をお招きし合宿形式で経営課題を話し合います。
10年近く前、ある企業のセッションを行いました。
この企業は、立志伝中の社長が創業し、強力なリーダーシップで成長させた会社で、現在の売上は数千億円。名前を言えば誰でも知っている会社です。
セッションでは経営幹部約50名が集まりました。創業者と苦楽を供にした実力派の古参の部下に加えて、次期の経営を担うであろう若手の課長・部長クラスも多く参加しました。
このセッションで、この社長はなるべく発言せず、部下同士の議論に委ねていらっしました。
既に経営から手を引き後進に譲ろうとなさっていました。自分がいなくてもこの企業が存続できるように企業の文化を変えたい、との思いなのでしょう。
セッション二日目、経営課題と情報システムの将来計画を巡るテーマについて、古参の部下と若手で激論がありました。双方譲り合わず収拾がつきません。
おそらく昔は鶴の一声で場を収めた社長は、この議論には一切加わりません。
社長は私達日本IBM社員に小声で
「すいません、ちょっといいですか?」
と声をかけ、こっそりと広い会議室の隅に集めた。
「今、議論しているこのテーマ。これはどのように収拾すればよいのですか?」
私達からは、今後進めていく上でのいくつかのアイディアをご提案しました。
「分かりました。是非その方向で、後日、私どもにご提案ください。何卒よろしくお願いいたします」
私達に深々と頭を下げられました。
自分の時代に自ら幕を引き、次の世代の議論に口出しをなさらない潔い態度、しかしどうしても心配で仕方がない誠実な姿勢は、今でも強く印象に残っています。
このセッションが終わって数日後、この社長から、セッションに参加した日本IBM社員一人一人に、丁寧なお礼のeメールが届きました。